【短篇 怪奇小説】悪意(あるサイコパスのモノローグ)
ひとり暮らしの狭い台所に無造作に置かれた、透明なプラスチックの、どこにでもある安物の、取るに足らないおれ自身のような醤油差し。
五分ほど醤油の入った円筒のなかにそれを発見したのは、二日酔いのため昼近くまで布団にもぐっていた休日のこと、小便に起きたときだった。
醤油差しになどなぜ目が行ったのか、それは悪意のせいなのだが、そして目が行かなければ永遠にそれを発見することはなかったのではないかと思うのだが、とにかくおれは安物の取るに足らないおれのような醤油差しが妙に気になり、不穏なものを見ている感じがして必然顔を近づけ凝視してしまった。
白いカビが内側に貼りついているのかと一瞬思った。自炊もしばらくしておらず、醤油を使うこともなかった。梅雨時であることを考えればありうることだった。目を細めて顔を近づけるほどに不審感が大きくなる。白いカビは手の形をしていた。人の指よりも長細くて先端が丸い。そして貼りついた大福のような楕円。
恐る恐る円筒を軽く弾いてみた。次に勇気を出して持ち上げ、片側に傾けた。すると茶褐色の小さな生き物が現れた。醤油色に擬態したアマガエルだった。
入り口は乾麺一本通るか通らないかの、蓋がしっかり閉まっている醤油差しにどうやってカエルが入りこんだのか。必死に常識的な答えを模索した。
誰かがいたずらで入れたのだろうか。しかしおれには自宅に招くような友人はいない。
人の手によるものでないとすれば、カエルの卵の一粒が注ぎ口から偶然入りこみ(アマガエルの卵はそれほど小さいのだろうか?)醤油差しという池の中でオタマジャクシになり、そして非の打ち所のないアマガエルへと成長を遂げたのか。
それとも、これがもっとも現実的だが(しかし現実的という言葉ほど非現実的な響きもない)、醤油を詰め替えようと蓋を開けたままにしていたときに、ぴょんと飛びこみ身を潜めていたのか。しかし、いつ詰め替えたのか記憶にないほどの日数を、醤油を餌とし水分として生き延びてきたというのだろうか。
それとも、それが不可能だと思うのはおれの思いこみで、十分ありうることなのだろうか。そうかもしれない。深海の熱水噴出孔で生きるエビや南極の氷河のなかで生きる昆虫がいるのだから、醤油のなかで生きる両生類がいてもおかしなことではないのかもしれない。
自分の常識感覚は非常識なのだろうか。しかし常識と非常識にラインを引けるだろうか、そんな境などあるのだろうか。
そんなことを考えているうちに自分がどこにいるのかわからないような気分になり、どこかに落ちていくような、身体が沈んでいくような気がした。悪意に引っ張られているのだと思い当たるとぞっとして、力を振り絞って立ち上がった。
薄汚れたスニーカーに足を突っ込みドアを開けると外は雨だった。
ビニール傘を開いた途端、強風が傘を舞い上げた。地面に落ちたそれはどこか生き物を思わせる動きを見せ、おれが一歩近づくとそのぶん離れ、一歩戻るとそのぶん近づく。完全に悪意にからかわれている。もてあそばれている。雨と屈辱感に打たれ、雨傘に背を向けると駆けだした。
しばらくもしないうちに、走っているのがおれではなく脚であることを知った。脚は脚の自由意志で走っていた(自由な意志があればの話だが)。なぜならおれはもう止まりたかったのに脚は一向に止まろうとしないのだから。
おれと脚との戦いだった。どちらが主導権を握るか、その結果次第ではおれは脚に、脚はおれになってしまうだろう。そんな恐怖のなか、しかし脚になんぞおれが務まるかと思うと少し余裕を取り戻して、ひっくりかえったカブトムシみたいにわしゃわしゃ動いている脚の膝のあたりに手を当て押えてみたが無駄なようなので、もういっそ転んでしまえと思いきり上体を傾けた。すると走る勢いによって上体は回転し、背中からアスファルトの地面に落ちた。
一本背負いを食らったような形で背中を叩きつけられ、思わず自然にゲホッと咳が口から漏れた。背中の痛みをこらえながら、もう一度、今度は自分の意志で咳をしてみた。
ゲホッ。
大丈夫。咳は自分でできる。安堵すると空に目をやった。雨粒がおれの顔に降り注いでいた。
ものすごい勢いだ。それはまるで何十万の敵軍の兵士がたった一人の人間に向かって放った矢のようだった。
おれは慌ててこのイメージを消そうとしたが、悪意がそれを許さなかった。まだ痛くない。しかし脳裏に浮かぶ弓矢がおれの想像の壁を越えたとき、滂沱の雨粒はおれを突き刺し穴だらけにしてしまう気がする。まだ痛くない。
目を閉じる。深呼吸をする。平静を装ってゆっくりと上体を起こす。大丈夫、おれは大丈夫だ。しかしその瞬間悪意の笑い声が聞こえてきた。
今しなければならないことは、悪意から離れることだった。避難する場所が必要だった。人のいる場所。自分の外の人がいる場所。
目に付いた喫茶店に飛び込んだ。
カウンターの向こうのマスターらしき人物と目が合った。しかしマスターがどんな表情を浮かべているのか認識できなかった。顔は見えるが、目や口や鼻や顎鬚はわかるが、その集合体が意味するものを認識できなかった。とうとう視覚も自由意志の眼球に奪われてしまったのだろうか。おれは途方に暮れてマスターの表情の意味を求めて、マスターの顔を見つめ続けた。
「ほらっ」
ふいのことだった。マスターはおれにタオルを渡した。
べつに親切だともうれしいとも思わなかったが、渡されたタオルを軽く頭を下げて受け取るという常識的な行為によって、おれはおれから少しだけ離れることができ、視覚を取り戻したようだった。急に寒さも感じられた。
「ブレンド、ください」
マスターは鼻から軽く息を吐くと、カウンターの奥へと消えていった。このありきたりな仕草に安堵を覚えた。
ゆっくり丁寧に、頭髪や首をタオルでふく。くしゃみが出そうになり、慌てて鼻翼を強く押さえてこらえた。この現実感はくしゃみひとつで決壊してしまう、そんな気がした。
コーヒーカップを手にしたマスターがやってきて、おれが座るカウンターテーブルに置いた。
「タオル、もう一枚いるかい」
おれは首を振り、「ありがとうございます」と言った。そして現実的な受け答えをした自分に大きな満足を感じた。両手をカップに当て温かみを感じ取ってから、ミルクと砂糖をたっぷり入れた。
「急に降ってきたな」
「どしゃ降りだね」
肩越しに見ると、斜めうしろのテーブル席に、スーツ姿の男たちが向かい合っていた。薄暗い店内のため今まで気がつかなかった。
「じめじめしていやだね」
「ああ、喜ぶのはカエルくらいなもんさ」
「最近急に増えたよな」
「ほら、そこの窓にも」
「どこにでもいるんだ」
鳥肌が立った。嫌な予感がした。恐る恐るコーヒーカップを覗き込んだ。ゆっくりとスプーンで攪拌してみたが、角砂糖の残骸をすくいあげるのみだった。ソーサーに液体を流していった。底に残っていたものは挽いたコーヒー豆の残骸にしか見えなかった。ソーサーから溢れた液体はカウンターの木目と溶け合っていた。
大丈夫。悪意はまだここまでははびこっていない。
「今朝なんか、コロッケにソースをかけようとしたら、ボトルの口からアマガエルがちょろっと飛び出てくるんだものな、まいったよ」
心臓が止まり身体が凍りついた。やはりだめかもしれない。目眩がして倒れそうになった。しかしおれを救ったのはまたしてもマスターだった。
「あんた、なにしてんの!」
身体半分そっちに行っていたおれにはそれがまったく場違いな言動に感じられた。
マスターが偽物でスーツが本物かもしれない。それともマスターも偽物を演じる本物かもしれない。でも、演技だとしても、偽物のほうがよいとおれにはまだそう思えたので必死にこらえた。そして演技には演技で対抗するという考えうる限りの最善の策をとった。
「すみません、手が滑ってしまって」
そう謝り、お釣りはいりませんと千円札をテーブルに置き、スーツ姿の男たちを視界に入れないようにして立ち上がり、喫茶店を出た。
雨は上がり、雲間から太陽の光が注いでいた。悪意は太陽光を嫌う。どうやら今日も乗り越えられそうだ。醤油差しのカエルもきっともう消滅しているだろう。
だが悪意はいつでもどこでも不意に現れるから油断はできない。特に夜と休日は、いたるところで跳梁跋扈している。おれのいる、いたるところで。
了