密林のイニシエーション
【短篇小説】舞台は密林。対立する二つの部族のあいだで葛藤する少年と少女の物語。
いた! ドーイは背中の矢筒から矢を一本そっと抜き取った。手が震えた。えい、たかがサル一匹じゃないか。枝を踏み折ったりしないように足元に注意しながら獲物に近づいていく。もっとも、森はいつでも鳥の声虫の声で賑やかなので、ちょっとやそっとの物音では獲物がハンターに気づくことはない。低木の茂みや大木の幹に隠れながら距離を縮める。射程圏内に入ると、矢を弦に当てがいながら川で泳ぐサルに目をやる。と、ドーイの身体から緊張がほどけた。
なんだ、メスじゃないか。しかもまだ子どもだ。
がっかりすると同時にほっとして弓を下ろし、矢を矢筒に入れ戻した。次の獲物を探そうと腰を上げかけたが思い直して再び小川に目を向けた。バル族のメスザルをあまり見たことがなかったので、この機によく観察しておこうと思った。そこは小さな砂浜になった、太陽の光がよく届き風の通りのよいさわやかな場所だった。のんびりと泳ぐメスザルのほかはだれもいない。年のころは自分と同じくらい。まだ乳房は小さいが、尻のラインはメスのそれで柔らかい。バル族のサルは人の皮をかぶっているので、その子ザルもワシリの少女たちとよく似ていた。いや、それ以上に・・・・・・ それにしてもバル族が、しかもまだ子どもといえるメスがたった一匹で森にいるのは珍しい。きっと村が近いのだろう。
そのとき、ギャーギャーと耳障りな叫び声をあげてコンゴウインコのつがいがゴムの大木の枝葉から飛び立った。すると子ザルは浅瀬で立ち上がり、まるで大きく立派な弓矢を手にしているかのように見えない弓を構え、見えない弦に矢を当て、見えない矢を放ち、ひとり歓声を上げた。なんなんだあいつは。それにあの笑顔。なんなんだあいつは。
子ザルは川から上がると、バナナの葉のスカートを腰に巻き、小魚が少し入った網かごを担いだ。後をつけていけば村の場所がわかる。いやそれよりも彼女に取り入り、村に案内してもらったほうが得策だ。ドーイはそうやって少女と話してみたい衝動を無意識にすり替えた。
「おい、おまえウバイ村の者だな」
少女ははっと身を固め、ドーイを凝視した。その目は太陽光のせいかひどくまぶしい。内心の動揺を悟られまいと、皮肉そうな顔で言った。
「なんで矢を射る真似なんかするんだ? ウバイの女は狩りをしないと聞いているぞ」
少女は瞬きもせず彼を見続けたが、やがて言った。
「おれは男だ」
ドーイは手を打って笑った。
「その胸のふくらみはなんだ? 蜂に刺されたのか? 股のあいだもなにもなかったみたいだけど? 見えないほどちっちゃいのか?」
少女は無表情のまま背のかごをゆすって背負い直し、ドーイのふんどしやボディペイントを横目で見た。
「見かけないやつだな」
内心はどうかわからないが、知らない男に動じる様子はない。心臓を射ぬかれても死なないワシリ族だと名乗れば、その整った顔が恐怖にゆがむだろうか。見たいような見たくないような気がした。
「遠い集落から来た。あんたの村に遊びに来たんだ」
ワシリ族同様に、バル族も、若い男が恋人や嫁を探しに別の村をしょっちゅう訪問していることは知っていた。
「間に合ってるよ」
ドーイは大げさに笑い、
「馬鹿だなあ。おまえみたいなガキ相手にするか」
「そういうおまえこそまだ早いんじゃないのか? ふんどしのなかのものに毛が生えてから来るんだね」
少女は笑い返し、図星のドーイは自分の顔が赤くなるのがわかった。ひそかに気にしていることだった。下品な女は嫌いだ。生意気な女も嫌いだ。飛びかかりねじ伏せてやろうかと思ったが、やめた。たとえサルでも女にそのようなことをするのはワシリの男として恥だ。
「村に案内しろよ」
「いやだね」
「なんでだよ」
「女の尻を追う男は大嫌いだ」
「ちぇっ、いいさ、おまえの後についていくから」
「無理だと思うよ。ここは村から遠いしおれの足は速い」
少女は不敵な笑みを浮かべて川下に歩き出した。ふと振り返り、ドーイが同じ場所にいるのを確認すると駆け出し、すぐに森のなかに見えなくなった。
追おうとは思わなかった。自分の森ならば迷うことは絶対にないが、ここまで遠くに来たことはなく土地勘がまるでない。追いかけた結果まかれてしまい、森に迷い込んでしまえば帰り道もわからなくなってしまう。そうでなくとも無事に帰れるか心配しはじめていたところだ。もう少し友好的な言葉をかけるべきだった。なかよくなるべきだったのにその反対のことばかり言ってしまった自分に腹が立った。
その夜は蓄えの干し肉を食べ、獣除けの火を焚き、それでも襲われるかもしれないという五度目の恐怖を押し込めながら眠った。
朝、鳥たちの鳴き声で目覚めると、孤独にうずく胸を叩き小川で行水してから、さてどうしたものかと考えた。別のサルを探しに行くべきだったが、ここから離れる気がしなかった。そこで小魚を捕まえてみようとしたがなかなか捕まらない。小魚漁は女の仕事なので、ドーイは捕まえ方をよく知らなかった。蔓の網や仕掛け罠でもあれば別だが、弓矢と骨製ナイフしか持っていない。
けたたましい鳴き声。コンゴウインコだ! 昨日と同じつがいかもしれない。ということは近くに巣があるのだろうか。川から上がると弓矢をつかみ駆け出した。派手な赤い羽根なので見つけるのはそれほど難しくはないが、射止めるとなると話は別だ。弓の腕はよかったが、飛距離においてはどうしても大人にかなわない。いた! 届くか? 向こうは気づいていない。いまだ! 鳴き声が響き、鳥が飛び立った。逃がしたか。地面の枯草になにかがどさっと落ちた。美しく立派なオスだった。
川辺に戻ると、羽毛をむしり腹を割いた。取り除いた内臓はにおいに誘われてジャガーがやってこないように川に流した。熾火を使って火を大きくし、肉を枝に刺す。焼けるまでのあいだ、羽根を選別し軸に小さな穴をあけ、蔓を通していく。昨日の少女がまた来るとも思えなかったが、もう少し待ってみたかった。
孤独のつらさを忘れるために、川で成功の見込みのない手づかみ漁に没頭していると、川のせせらぎに混ざってなにかが聞こえた気がした。手をとめ耳を澄ます。歌だ。女の声だ。ワシリでも森に入った者は獣に襲われないように歌を歌うことがある。歌声はますます近づいてきた。川から上がって声の方を見つめていると、茂みからひょいと昨日の少女が現れた。歌はぴたりとやみ、ふたりは小川をあいだに挟んで無言のまま見つめ合った。相変わらずなにを考えているのかわからない木漏れ日のような目。昨日の失敗を繰り返す気はなかったので、笑みをつくってインコの羽根を拾い上げた。
「きれいだろ?」
少女は目を大きくし、逃げてしまうだろうかと思っていたドーイを驚かせたことに、質問を発した。
「おまえが捕ったのか?」
「ああ」
「どうやって?」
ドーイは自慢の弓矢を指さした。
「これ、おまえにあげるよ。首飾りだ」
「おれに? なぜ?」
「友だちの印さ」
「おれは男だ」
「だからなんだ? ぼくの集落では男も女もしてる」
「・・・・・・それはもらえない」
「お返しなんていらないよ」
「そんなものして村には帰れない。そうじゃなくてもおれは・・・・・・」
「いらないなら別にいいさ。インコの肉と食い物を交換しないか。キャッサバが食べたいんだ。バナナでもいい」
「弓矢がうまいのか?」
「ああ、大人に負けないぜ」
「作れるのか?」
「もちろん」
少女はふいに背のかごを頭に載せるとじゃぶじゃぶと小川に入り、ドーイの側に渡ってきた。そしてかごからバナナの葉でくるんだ包みを取り出し、地面に置いた。
「やるよ。肉はいらない。でもそのかわり、弓矢の作り方と使い方を教えほしい」
「使えるようになってどうするんだよ。おまえ女だろ」
「だからなんだ。女が狩りをしちゃ悪いのか」
「そうじゃないけど、でもおまえは・・・・・・」
「村では女だからって触らせてもくれない。教えてくれるなら明日はバナナも持ってきてやる。ちゃんと使えるようになったら村に案内してやってもいい」
ドーイは包みに歩み寄り、少女はそのぶんだけ後ずさる。広げてみるとキャッサバ団子と煮豆だった。
「昼飯じゃないのか」
「いいんだ。食べろ」
「毒が入ってるんじゃないだろうな」
少女は溜め息をつき、団子のひとつを口に放り込んだ。もぐもぐやっている顔はずいぶん幼く見えた。妙に堂々としているせいで同い年くらいかと思っていたが、もっと若そうだ。
「まあ、教えてやってもいいけど、言ったこと約束だからな」
「よし、取引成立だな」
「でもさ、おまえ、やっぱり女じゃないか」
ラカは真剣だったので、ドーイもできるだけ丁寧に教えた。
「矢は三種類だ。小さいのと中くらいの、大きいの。小さいのはネズミ用。中くらいはサルや鳥やブタ。大きいのは先端に切れ込みを入れて毒を塗るんだけど、これは教える必要ないな」
「どうして? 教えてくれ。毒の作り方も知りたい」
「だって大きいのはこの辺にはもういないゾウとかの大きな獲物か、それか・・・・・・」
しかしラカの大きな目で懇願されると断ることはできなかった。
教え子が弓矢作りに没頭しているあいだ、退屈したドーイは木によじ登って鳥の巣を探したり、川で泳いだり、蔓をヘビだと言って少女をからかったりした。ラカは呆れ顔で、
「ウバイの男子と同じだな」
聞き捨てならんというようにドーイは反論した。
「同じであるもんか。おれのほうがずっと勇敢だし強い」
「おれだって強い。強くなる」
ドーイは熱心に木を削るラカをしばらく眺めていたが、やがて小川から上がると焚火をあいだにして座った。
「おまえ、どうしてそんなに強くなりたいんだ?」
ラカは弓づくりに没頭しているふりをしていたが、ドーイは待った。少女は彼をちらりと見ると再び手元に視線を戻し、手を休めることなく言った。
「おれの兄貴はワシリ族に殺された。だからおれは戦士になってワシリに復讐する」
寒くもないのに背筋に悪寒が走った。ラカは顔を上げ、感情のこもらない目で彼を見つめた。
「なんでワシリだってわかるんだ? ジャガーかもしれないし、バルのやつらはしょっちゅう酔っぱらって・・・・・・」
「心臓がなかった」
返す言葉はなかった。ワシリ族の通過儀礼はバル族のあいだでも周知されている。ドーイは焦げかけている小魚を意味もなくつつき、火にくべて燃やした。
「ラカは知ってるか? もとはといえば、あとからやってきたバル族がワシリ族の食べ物を奪ってしまったんだ。だから彼らはバルをすごく恨んでいる」
「食べ物を奪った? そんなことあるわけない。おれたちは鳥もサルも食べない。ブタだって飼育したのを食べる。野生の動物は狩らない。弓矢は戦士だけのものだ」
「でも森を焼いている」
「キャッサバを栽培するためだ」
「だから森の獣たちはいなくなってしまった。バルは増えている。だから焼かれる森もどんどん広がる。だからワシリの食べ物もどんどん減っている」
「ワシリの肩を持つ気か?」
「事実を言っているだけだよ」
ラカは炭と化した小魚を凝視していた。
「数で勝るバルを追い出すために、数を減らそうとワシリは考えている」
「だから殺すのか? やりすぎだ」
「だったらどうすればいい? このままじゃバルは増え続けワシリの恨みは大きくなるばかりだ」
「結婚なんかしなければいいんだ。そうすれば生まれる子どもが減って畑を増やす必要もなくなる」
ドーイの笑い声を代弁するかのようにコンゴウインコのけたたましい鳴き声が聞こえた。ドーイは反射的に弓矢を手にして立ち上がった。耳を澄ませる。あっちだ! ラカもついてきた。ラカの前で獲物を狙うのは初めてだ。失敗したくない。だが失敗したくない理由はそれだけではなかった。つがいの一方を仕留めたのと同じところ。やはりあそこに巣があるのだろう。あとで卵を取りに登ろうと考えながら、木の根元から矢を真上に向けて構える。ひゅっと風を切る音。鳴き声ひとつ立てずにインコは地面に落ちた。メスだ。ドーイは安堵して思う、これでつがいは生まれ変わってまた一緒になれるだろう。
弓矢はラカひとりでもそれなりのものを作れるようになったので、次のステップは実践練習だった。習う理由を知ったからにはもう教えるべきではなかったが、これでさよならということはできなかった。それにもう遅すぎだ、とドーイは自分に言った。練習などひとりでもできるし、毒矢の作り方まで教えてしまったのだから。こうとなっては将来の戦士の心臓を持って帰るのがワシリのためだろう。だがそんなことができるわけもなかった。
幸いなことに、ラカの矢はなかなか獲物に命中しなかった。少女の腕では高い木にいる鳥やサルにまで矢が届かない。
「落ち込むなよ。もう少し大人になって腕が長くなったら届くようになるよ」
ドーイはそう慰めたが、ラカはしとめ損ねるごとに元気がなくなっていった。
何日目かに野生のブタに遭遇した。ブタには数人が輪になって囲みを狭めて追い込む囲い猟が適しているが、あいにくふたりしかいない。外れて当然当たれば儲けと、ドーイは一方から雄たけびを上げてブタを追い立てた。運がいい、ラカのほうに逃げた。「そっちに行ったぞ!」と叫び耳を澄ます。矢が放たれた音が聞こえたような気もする。ブタのいななきはない。駆けつけると、少女はしょんぼりとどこかに行ってしまった矢を探していた。
小川に戻ってもラカは一言も口を利かなかった。ドーイはウバイ製の網にかかっていた魚の頭を石に打ちつけ、細枝を口から尾に通し、焚き火を大きくした。ラカを見ると、顔を落として物思いにふけっている。
「元気出せよ。初めはだれだって失敗する。だんだんうまくなってくんだ」
「そんなんじゃない」
「じゃあなんだよ」
「うまくなったって、どんなに練習したって、おれは戦士になれない」
「どうして?」
「戦士は男しかなれない」
「そうか」ドーイは内心の喜びが顔に現れないように口をきつく結んだ。
「でも、よかったのかもしれない。通過儀礼をしなくて済むから」
「どういう意味だ?」
「ドーイは戦士になるための通過儀礼がどんなか知ってるか?」
バル族であれば知っていて当然のことだが、ドーイは素直に首を左右に振った。
「ワシリの成人儀礼と似てるんだ。ワシリの大人の首を持ち帰る、それが戦士の証。兄貴は戦士になりたくてワシリ族を殺そうとして、反対に殺された」
驚きはしなかった。ワニやジャガーは減っているのに、突然いなくなる大人が今もときどきいる。バル族に報復で殺されているのだという噂はずっと前からあった。
「でも実を言うと、そんなに悲しくないんだ。おれ、兄貴のことあまり好きじゃなかった。いつもいばって、女はああしろ、女はこうしろ」
「でも報復はしたいんだろう?」
「したくないわけじゃないけど、本当はただ戦士になりたいんだ。違う、狩人になりたい、ワシリみたいに。なあ」
ラカの目が大きくなる。ドーイは満月みたいだと思う。
「ワシリ族は女も戦うんだろう? 女も狩りをするんだろう?」
「まあな」
「いいなあ。女だからって言われない」
「そんなことはない。男の仕事、女の仕事がある。ゾウ狩りは男だけがするし、料理は女だけがする」
「でも女も心臓を取ると聞くぞ」
「ラカは誤解している。狩りも戦いも必要がなければしない。人手が足りなければ女もする」
「結婚しないで男だけで暮らしているやつもいるって」
「そうしたいわけじゃない。女が少ないから、結婚できない男が共同で暮らすんだ」
「女が少ない? どうして?」
「女は子を産むから。家族が増えないように、女の赤子が生まれると人になる前に土に戻す。これも女の仕事。産んだ女の泣き声が一晩中響く。耳をふさいだって聞こえてくる」
一瞬言葉を失ったラカはむきになったように、
「でも、だからワシリの女は強い」
ドーイは言うべきか迷ったが、言わずにおくことはできないことだと思った。
「成人儀礼のための心臓をどうするか知ってるか? バル族狩りをしたとき、殺したバルを持ち帰るのはなぜだと思う? ワシリ族の子どもは小さいころから、バル族は人間の皮をかぶったサルだと教えられる。大切な食べ物だった毛が生えたサルが森からいなくなってしまったのは毛のないサルのせいだから、そのかわりにするのは当然だって」
日が傾むき森の影がふたりを覆っていたので、顔を伏せたラカの表情を見分けることはできなかったが、それがかえってありがたかった。
「ぼくのこの旅は成人儀礼の証を持ち帰るための旅なんだよ」
「噂は本当だったんだな」
「噂?」
「サルの目を食べれば自分の目がよくなる。サルの心臓を食べれば自分の心臓が強くなる。おれたちバルが通過儀礼の証を心臓じゃなくて首にしたのは、ワシリは心臓を抜き取られても死なないからだって」
「まさか、心臓を取られて死なないわけがないだろう。森の悪魔メリリじゃあるまいし。おまえもぼくも同じ人間だ。だからいやなんだ、証なんか持ち帰りたくない。ラカに会って、ウバイの人々を見て――ごめん、後をつけて村にも行った――その気持ちはもっと強くなった。でもそんな臆病者はワシリの一員として認められない。だからぼくは戻れない。どこにも行く場所がない」
「……おれも同じだよ。ワシリの狩人になりたかったけど、バルを狩ることはできない。でもバルの女として結婚させられて女みたいに生きるのはもっといやだ」
「おまえ、村でもいつもひとりなんだな」
ラカは顔を上げ、焚き火に顔を赤く染めながら、
「悪いか。女たちといてもつまらないし、男たちはおれを女扱いする。ウバイを出たいけどどの村に行ったっておんなじだ」
「なあ、ぼくたちふたりだけで森で暮らさないか。夫婦になろうってんじゃない。まあ、ラカの気が変わったら考えてやってもいいけど。バルもワシリもいないところならきっとまだ動物がたくさんいる」
「無理だよ。笑われるかもしれないけどおれは森が恐い。ここはおれだけの秘密の場所だったけど、おまえみたいに夜ここで眠るなんてできないし、昼だって正直恐いんだもの」
「ぼくだって森は恐いよ。ひとりなら長くいることはできない」
「ドーイ、おれの心臓を取れよ。そうすればおまえは帰れる」
「馬鹿なこと言うな。それに女子どもの心臓じゃ証にはならない」
「あーあ」とラカは空を仰いだ。「バルとワシリがなかよくなればいいのにな。そうなればおれは狩人になれるのに。おまえも通過儀礼しなくて済むのに。一緒に生きる方法をみんなで話し合えばいいのに」
「無理だろうな。どちらも憎しみが深すぎる」
ドーイは焦げかかった魚の串焼きをラカに向けたが、ラカはじっと火を見つめて動かなかった。ドーイも食欲が湧かなかったので、串を再び地面に刺した。迫る夕闇とともに気持ちは暗くなる一方だった。
「なあラカ、ぼくがジャガーに食われるから、死んだら首を持っていけよ。もしかしたら女でも戦士にしてくれるかもしれない」
「してもらえなかったら無駄死にだ」
「どのみち行き場はないんだ」
「ならおれも食われるよ。おまえの首で戦士になりたいとは思わない」
「食われるおまえは見たくはない。それならいっそおまえを殺して毒を飲むよ」
「ふたりで死ぬか? それもいいか」ラカは投げやりに笑ったが不意に黙り込み、物思いに沈んだ。
「どうした?」
「どうせ死ぬなら、ふたりできっかけをつくってやろうか」
「きっかけ? なんの?」
「バルとワシリがなかよくなるための」
「どうするんだ?」
「おまえ、本当に死ねるか?」
ドーイは大きく息を吸った。
バル族の村、ウバイにまだ子どもともいえる若者がやってきたのは日が沈みかけたころだった。バナナの葉で覆った胸の前で、バナナの葉にくるまれたものを大事そうに両手で持っている。髪の結い方こそバルのそれだったが、腕や脚のボディペイントの文様に見覚えがあった者が「ワシリが来た!」と叫び、家に隠れる者、罵声を浴びせる者、棍棒をもって出てくるものと、周囲は大騒ぎになった。しかし若者はまったく意に返さず、ゆっくりした、しかし確固たる足取りで進み続けた。そして族長の掘立小屋の前に立つと不思議なほどよく響く声で叫んだ。
「バル族の戦士の証、ワシリ族の首を持ってきました。族長に検分をお願いしたい」
何事かと小屋から出てきた族長と家族たちは、両手で恭しく差し出された首を見て息を飲んだ。追ってきた人々は輪になって若者を囲った。
「おまえは何者だ? この辺りの者じゃないな。本当にバルなのか?」
若者はバナナの葉を広げてその上に首を丁重に置くと数歩下がった。族長はよく見るために松明の火を持ってこさせ、火に照らされた顔を見るとはっとして後ずさった。
「まさか、この首は、カカトゥの子か?」
すると、一瞬静まり返っていた人垣が再び騒がしくなった。
「ンディバとカカトゥをここに呼べ」
族長が叫ぶのと同時に女が人垣のなかから現れ首に駆け寄り、男もあとからためらいがちについてきた。
「ああ、そんな! どうして・・・・・・」
女は声を失い膝をつき、首に触れることができないまま前に伸ばした両腕を震わせていた。
「小僧を捕らえろ! 首をはねろ! こいつはワシリだ!」
族長は怒りに顔を赤くして叫び、いまや村人全員かとも思われる人の輪が崩れかけた。
「待ってください!」若者はよく響く声で叫んだ。「見てのとおりぼくは丸腰です。捕らえるのはいつでもできます。少しだけ話を聞いてください」若者はよろめいたが、足を開き仁王立ちになった。「この子はたしかにバル族でしたが、ワシリ族の成人として認められました。だからこの首はワシリ族の首と言えるのです」
「わけのわからんことを。ワシリの人食い鬼め!」
「そうです、ワシリはあなたたちを多く殺してきました。それというのもあなたたちが森を焼き払ったおかげで獲物が減ってしまったからです。ワシリはずっとバルを憎んできました。でもぼくはこの子に会って知りました、あなたたちもワシリ族と同じ人なのだと。ラカもそうです。ワシリ族が人食い鬼ではなく、悩み恐れだれかを愛する心を持つ同じ人であることを知りました」
「ならばどうして殺したのだ!」
「ラカがワシリになり、ぼくがバルになるためです。正確に言うと、ラカはまだワシリではありません。これからワシリになるのです」
「カカトゥの娘はもう死んでしまったではないか!」
ラカの母親が悲鳴のような泣き声を上げた。
「今ここでぼくがバル族だと認められた瞬間に、ラカもワシリ族として正式に認められるのです。なぜならラカはワシリ族の成人の証をワシリの長に差し出しているからです。ワシリ族は、バル族の者の心臓を持ち帰ることによって成人として認められるのです」
「ではカカトゥの娘はわれらバル族の者を殺して心臓を取り去ったというのか」
「安心してください。ラカが取ったのはワシリの心臓です」
「わけがわからん。だからおまえは報復のために殺したのか」
「違います。その反対です。ラカはぼくにこうしてほしいと願いました。だからラカが儀礼のための心臓をワシリの長に差し出したあとに、ぼくがラカの首を切ったのです。ワシリの集落では今、死んだラカの成人祭の準備をしています」
「ますますわからん。いったい心臓を取られたワシリとはだれのことだ」
若者はおもむろに胸に巻いていた蔓をほどいた。すると胸を覆っていた葉がはらりと落ち、人々はあっと叫んだ。その胸を通して反対側の松明の火が見えた。
「ぼくの心臓を証としたラカがワシリ族になるためにはぼくがバル族にならねばならない。ラカの首を証とするぼくがバル族になるためにはラカがワシリ族にならねばならない。あなたたちがぼくをバル族とした瞬間、ラカもワシリ族となり、ぼくたちの思いは叶うのです。だから族長よ、どうか憎しみを解きぼくをバル族の戦士として認めてください」
族長はなにも答えることができなかった。なにが起きているのか理解できなかった。しかしドーイはもうすべて言い尽くしたというようにそれきり口をつぐみ、仁王立ちのままぴくりとも動かなかった。ドーイの耳にはコンゴウインコのつがいの鳴き声が聞こえ、目にはラカの笑顔が見えていた。
「バルとワシリがなかよくなって、おれが男に生まれ変わって、おまえが女に生まれ変わったら、結婚してやってもいいぞ」
ドーイの心臓は、ワシリの人々の見守るなか祭壇のうえでかすかな鼓動を続けていたが、今ようやくとまることを許された。
了