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「感性/技巧」の対立構造について

巷ではよく、「感性/技巧」を対立的に語り、互いの価値観は平行線を辿り、時には論争を繰り広げたりしているのだが、私は、まず感性があって、技巧は後からついてくる派である。それは、私の高校生の頃の愛読書が小林秀雄だった事からも、自明の事のように思うのだけれど、今の日本で小林秀雄の本を愛読していたから私は感性、つまり、直感を重んじる、なんて書いても、ほとんどの人は理解出来ないだろう。
そんな小林秀雄は、人生の最後に「もののあわれ」の本居宣長についての難解な論稿を書き残すのだが、ここでは私の好物の「もののあわれ」を出来るだけ使わずに、「感性/技巧」について考えていこうと思う。

最初に示すのは、私は技巧派ではない、ということである。なので、私は、技巧を何よりも重んじる人を理解出来ない。
機材を重んじる人や理論を重んじる人も、私には理解出来ない。
私はiPhoneのカメラで写真を撮り、iPhoneのアプリで電子音楽を制作して、まぁ、写真は元プロだけど、音楽に関してはドレミがいまだに分からない。
ドレミが分からずに、鍵盤を叩いて、KORGのgadgetに打ち込んでいる。それを3年ほど続けてきて、これからも続けていくだろう。
独学なんて代物以前に、私はドレミが分からないし、カバー演奏とか出来ない。

私が音楽制作を始めたのは、その時、友人に写真を教えていて、相手は写真のことを何も知らない素人なので、こちらも同じ条件で新しい創作を始めなければ同じ目線に立てない、と考えたまでのことで、ならば、私が苦手としている音楽を始めた。私は音楽が苦手で、今も特別に音楽が好きな人間ではない。音楽制作を続ける上で音楽を聴き続ける必要があるから、音楽を普通の人よりかは聴き続けているだけで、音楽制作を始める以前は苦手意識以外に、特別な思い入れや、憧れなんてものは、音楽になかった。
私は、友人に教えている写真における方法論を、音楽制作に応用して、自身で実践したまでのことで、私の場合、それで音楽制作にハマって、今も制作を続けている。

「感性/技巧」の対立構造は、作品の何を最上にするか、という価値観の相違、ズレに起因すると考えれられる。あるいは、作品を鑑賞する際に、鑑賞者が何を見ようとし、何が見えているか。

私は写真の方法論をベースに音楽制作を始めた。なので、私は音楽に技巧を求めなかった、という一面も、もしかしたらあるのかも知れない。何故ならば、写真分離派の流れやリアリズムの観点から、写真は絵画のような美しさを求めず、下手くそな写真の方が真実に訴える一面があるからだ。素人の親が撮影した自身の子供の写真が我々の心を打つ事は容易に想像出来る。しかし、素人の親が描いた自身の子供の絵画が我々の心を打つことを容易に想像することは困難である。まぁ、そういうのを実現させたのが、ゴッホという人なのかも知れないが。

明白なのは、私は写真において、技巧を言葉にして教える事にあまり興味がない事であろう。写真なんて押せば誰でも撮れる時代に、それも、スマホでキレイな写真が撮れてしまう時代に、技巧を欲するのは、プロか、プロを最上とする価値観のアマチュアなのではないか。そのような人たちが撮影するであろう絵画のような美しい写真というものがあり、最近、Instagramのオススメで勝手に出てきたりするのだが、私は、絵画のようにキレイだなー、と思っても、こういう写真を自分が撮りたいとは思わないのであった。

ちなみに、私は、今までの人生の中で、散文を書く技巧を誰かから習ったことはない。

音楽ならばどうであろうか。いわゆる超絶技巧。ギターとかピアノとかにあるアノ。率直に言って、私がそれをする必要性を感じない。まぁ、ドレミも分からない小学生以下の私が偉そうに言うことではないけれど。
私が思うのは、技巧派はともかく、理論派の人たちの中で、ジョン・ケージの音楽が理解出来ない人がいるとしたら、それこそ理解出来ない。理論を進めれば、当然、音楽は音楽ではない、というところまで行くのは明白なのに、音楽に固着し、音楽を音楽の内に留めておこうとするのはどうしてなのだろうか。
当然、絵画は絵画ではない、とか、写真は写真ではない、なんてのは、言葉遊びではなくて、考えていればたどり着くことで、正確には、絵画を目指しているのは絵画ではないし、写真が目指しているのは写真ではないし、だからこそ、絵画は絵画であり、写真は写真なのである。これらは矛盾しているように感じられても、実際のところは矛盾していない。反写真は写真ではない。だからこそ、写真たり得るのである。

私からしてみれば、技巧が目指すのは技巧ではないし、感性が目指すのは感性ではない、という単純な話であった。

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