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〜幸せへの一歩〜見直し手放す勇気


〜お断り〜
まだまだ原案を書き直ししている最中の作品です(読みにくいと思いますが、今後もう少し読みやすく細分化させてスッキリします。原文のまま、荒削りですが、お読みいただければ幸いです)。


『人それぞれの「幸せ/第二の人生」の探究に寄り添いたい。』

◎こんな人にオススメ!
「コーチング」を通して、普段考えないことや考えてみたかったこと、非日常的なテーマを考える時間を持つこと、「コーチングの時間」を通して一歩前へ、自分の本当の願いを見つめたり、前進出来ない人や進む勇気や手放す行動のバックアップを求めたい。

漠然と以前から、こんな感覚がワタシの中にいつもある。
「便利で豊か過ぎる不幸」「この状態のワタシは本当に幸せなのか」…と。
このスパイラルからの脱却とリセット。
モノや様々な技術、科学の発達で便利になり、まるでワタシ達が強くなったような、万能なような、思ったこと願ったことが思い通りにいき、手に入るような、そんな感覚錯覚すら抱いてしまう。ドンドン際限なく求め、さらに強化し続くこの万能感/豊かさボケに恐怖を感じ、これらからの解放の必要性を感じた。
『平穏で普通の価値の再認識』こそ、シンプルに幸せに生きるヒントがあると思った。
その意味での「脱不幸(コー)チング」を!

「日本はかつてないほど恵まれていて、十分すぎるほど、それでも足りない感覚麻痺に苛まれるほどに、豊かな国になった」と実感する。
こんな現代で、ヒトは物や情報に溺れ、必要以上に時間と労力を奪われ、本来かけるべき大切にしなければならない人との関係や自身の健康をおざなりにし目先の感情や利益や楽しみに囚われ…エネルギーの矛先がどこか違うところを向いている。
そんな気がするのはワタシだけだろうか。

かく言うワタシもかつてこんな生活だった。
沢山の持ち物や人、遊びや付き合い、趣味などの事柄で山の様に埋め尽くし、沢山ある事を良しとしていたと思う。

沢山のお金、贅沢な持ち物、週末のエンジョイ。
これらの例えは現代ではキリがないほど該当するものがあって、上げ出したらキリがない。
誰かの目を気にするわけではないが、それでも求めるものはドンドン過激になり、自然と欲する。

「けれども、どこか違う…」。
いつもこうスッキリしない、腑に落ちない感覚、漠然とした不安に付き纏われていた。
そしてそれが何か分からずに、またもがきながら同じ行動を繰り返す。
こんな苦しい日々の果てに離婚が待っている事は当時は想像もしていなかった。

この事でとても反省と情けなさや自身の醜さに落胆し、とことん落ちてしっかり見つめる時間をとり、何かこれを悔い改め活かしたいという気持ちに至った。

知らず知らずにものだけでなく、沢山の周囲から刷り込まれた価値観を持ち、疑う事もなく日々過ごし、その価値観で判断して、自分というパーソナリティーを過ごしている。そんな事を掘り下げていくうちに、過去の環境や受けた影響を鮮明に考え、自分という屈折した存在をはっきり認識する。

誰かのせいにするわけではなくも、誰かの影響や言われた一言、傷付いた言動などから自己のパーソナリティーが確立し、そのまま人は意識せずに生きていく。

それが普通かもしれないが、ワタシはこのキッカケでよくもわるくも自分というものを認識し、解放し、いかようにも変われる可能性や無限性を感じずにはいられなかった。

それとともに同じ感覚に苛まれる人やそんなことも認識せずにひたすら日々を苦しみながらもがく人の、何か一隅の光になりたい…そう思うようになった。また各々の中にある感覚にそれぞれが目覚め、各々の元々持ち合わせていたダイヤモンドが光り出したら、そんな素敵な生き方や幸せな人生はないのに、と痛感する。人は一人一人、過度な脚色をしなくとも、元々持ち合わせているもので十分幸せに生きられるはずだ。

それに気付かず、表象的な何かで埋め尽くし、それが見えない気付かない状態にあると、ワタシは思う。もちろんこれは一部の人や特別な人だけとは限らない。普通の人にも十分当てはまる。
だからきっとそれが、豊か過ぎる現代特有の病でもあるのだろう。

ワタシの失敗や経験は、ヒトの生き方や在り方にも何か役に立ち、そしてモノを通じて新たなスタートや物資としての貢献にもなれば、みんなが幸せになる…そんな素敵なサイクルを描いている。

ここまで読んでくださった貴方は、今ご自身のことがどう見えていますか?

・今まさに悩んで困っている人
・このままじゃ…なんとかしたい人
・自分を変えたい人
・賛同してくださる方々に

❤︎コーチングや仏教を通して、何かお手伝いやサポートを致します❤︎

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