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ラジオとわたし。

中学生の時に、誕生日におばからウォークマンを買ってもらった。ウォークマンにはFMラジオが聴ける機能がついていて、通学の電車待ちや、宿題をする時、寝れない時なんかによく聴いていた。ながら族の自分にピッタリのメディアだった。

うちの両親は少々古風で、仕事に支障もないので、平成にもなってネット回線が家になかった。ネット回線が開通したのは2014年だった。だから、それまで私はテレビとガラケーのEZwebとラジオで情報を得ていた。知らないローカルアイドルやアーティストの音楽、地域情報、くだらない下ネタやテンポのいい会話を聴いているのが楽しかった。ラジオは、田舎娘に色んなことを教えてくれた。あのころラジオで得た情報が今の自分を形成しているのは間違いないと思うぐらい、暇があれば聴いていた。好きなアーティストのほとんどはラジオで知った。

星野源の存在を初めて知ったのは深夜1時のJ-WAVEだったし、ゆずのオールナイトニッポンGOLDはラジカセの荒い音に負けじと耳をたてて毎週欠かさず聴いていた。そのために火曜日は21時にはお風呂に入り、22時には部屋にこもった。ノートにトークを書き起こしたり、ゆずがラジオでコラボした上大岡のお弁当を、横浜に住むおばに買って送ってもらったりした。

そんな中で中学時代にほぼ毎日宿題しながら聴いていたのは、TOKYO FMのスクールオブロック。掲示板に相談事を書き込んだら1回だけ逆電がかかってきたけどビビッて出なかった。出たらよかったな。とーやま校長が言ってた言葉を書いた紙がいまだに自室の壁に貼ってあるし、flumpoolLOCKS!を聴いて初めて関西人の喋りは面白いんだと思った。ベボベもこれで好きになって、確かに未だに自分はAでもなくCでもなくその間でモヤモヤしているB組だな~と思う。受験期もラジオを聴いて突破した。大学生になってからは次第に聴かなくなったけど…。他のラジオは聴いてる子が少なかったけどスクールオブロックは知名度が高くて、友達と「昨日のアレ聴いた?」みたいな会話をした。

2011年3月、東日本では大震災が起きたけど、岡山は特に揺れもなく普通に日常を送っていた。でもメディアはもちろん復興に向けての応援のものが多く、スクールオブロックも毎日前向きに放送していた。同世代のリアルな被災体験や相談に胸を痛めつつ、今年も閃光ライオットあるんだ!と嬉しくなった。

そんな中で、確か9月4日ぐらい、文化祭の打ち上げ前日に、とんでもない雨が降って、母さんの叫び声とともにドドドドドドって爆音がした。山のふもとに家があるので、裏山が土砂崩れして、実家の離れに直撃して、木が壁にぶっ刺さったらしい。怖すぎて見てないから実際のところは知らない。それもあって未だに豪雨は怖い。母さんは間一髪で逃げて一命をとりとめたから良かった。近所でうちの家だけ被災して、2日ぐらい公会堂に泊まった。心配したクラスの皆が打ち上げのカラオケから電話してくれて、電話越しに歌って元気づけてくれた。友達には被災したことを面白おかしく喋ったので、皆も笑ってくれた。でも自分で話しておきながら「意外と心配されないもんなんだな」とも思ってしまった。思い返せば、皆気を遣ってくれてたのも絶対あるんだけど。私の家はあんなに瀕死だったのに、皆は普通に生活してて、自分だけ被災している状況がなんだか気持ち悪かった。

そこからは、学校には行かなきゃいけないので、2.3ヶ月は祖父母の家から通学した。祖父母の家は山の中にあり、風呂場の近くに防犯としてラジオが置いてあった。それが一晩中ついているのを良いことに、周波数を勝手に合わせてスクールオブロックを聴いていた。ちょうど閃光ライオット当日の様子を放送していて、あの年の出場者の曲は未だに思い出す。同年代の子たちが、震災に負けずに青春のすべてをぶつけて演奏しているのが、心が震えたし勇気づけられた。なんなら風呂上がりに泣いてた。スクールオブロックはずっと変わらず放送してくれていて嬉しかった。

祖父母宅での生活を終えたある日、じいさんの運転する車の後部座席で、下を向いて携帯を触っていた。すると突然じいさんが「あんた、昨日のアレ聴いたか。なんかわけえ子らが学校じゃどうじゃゆうて。夢じゃ悩みじゃ言うやつ。スクールオブ…」と言ってきた。びっくりして思わず顔をあげた。じいさんも聴いとんかい。きっとあの時合わせた周波数がそのままだったんだろう。思春期もあってあんまり喋らないこともあったけど、その時ばかりはなんか嬉しくていっぱい喋った。80近いじいさんが、ラジオで10代の子の話を聴いてて、それを私に話してくれたのがなんだか面白かったし、共通の話題で盛り上がるのが嬉しかった。ラジオってパーソナリティとリスナーの双方向コミュニケーションが密にできて、関係性が出来上がっていくのが魅力だと思ってるけど、家族間のコミュニケーションも円滑になるのかと思ったら、新しい発見だった。そして自分たちしか知らない秘密みたいなのを共有するってなんか良いなと思った。

高校生になって家にネットが開通してからは、家は岡山なのに、なぜか風呂場でだけ東京の電波を拾ったので、バナナマンのバナナムーンGOLDをradikoでオンタイムで聴いていた。このころからお笑い芸人のラジオをよく聴くようになった。ただ、芸人さんのラジオは面白すぎるので作業中にながら聴きするには向いていない。

大学進学で上京してからも、引きこもってた時期もあったので引き続き芸人ラジオをよく聴いた。就活のタイミングで、フリーのラジオディレクターさんの手伝いを始めたり、卒論では自分でミニFMをやることになった。街の人の対話空間を生むために、商店街のホコ天で飛込参加型の公開生放送をやった。聴いてる側とは打って変わって、自分が作ったり喋ったりする側になると、難しくて恥ずかしくて辞めたくなった。でも、マイクを通すと、知っている人の知らない一面を知れたり、街にはこんなに面白い人がたくさんいるのか!と気づけたり、こういう企画やりたいって言ってくれる人も現れてやることになったり、面白い構成を考えるのが楽しくなったりした。ジングル録ったりステッカー作ったりも楽しかった。

そんなこんなで、振り返ると私の人生にはラジオがずっとそばにあった。ラジオとお笑いは私の精神安定剤みたいなもんだ。パーソナリティとリスナーの、グルみたいなファミリーみたいな不思議な関係性も大好きだ。同じ番組を聴いている人に出会うとめちゃくちゃ嬉しいし、聴いてる番組でその人の人となりも見れる。新しい世界も知れる。何か作業しながら情報を得れるなんて、飲んどきゃ痩せるサプリメントっていうと聞こえが悪いけど、めんどくさがりの私には最高のメディアだ。一方で、作り手側の大変さ、情報を正しく伝えることの難しさ、業界の甘くはない裏側なんかも知ったけど、それでもラジオに携わる人たちの熱い気持ちには惚れ惚れする。憧れている。

私はラジオが大好きだ。これまでもこれからも。


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