【後書き①】おかげで、書くのが楽しみになった
※この文章は2023年5月に刊行の小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』のあとがきです。
10代から20代にかけて音楽活動をしていた頃、ミックスダウンという作業が好きだった。録音した楽器(声も含む)を1つの曲として形にするために、パートごとの音量や音の響き方や定位(音の左右の配置)を調整し、バランスを整える作業のことだ。
ボーカル、バックコーラス、ギター、ピアノ、シンセサイザー、ベース、ドラム。耳が1度に認識できる音の数は限られているから、どれか1つを目立たせようとすると、たちまち他の音は埋もれてしまう。
わかりやすさやインパクトを優先させるなら、それでもいいのかもしれない。けれど僕は、偏ったミックスのせいで、その楽器が奏でた音がなかったことになるのがどうしても嫌だった。
だからパートごとに音量の微調整を繰り返し、曲の展開に合わせてさりげなく主役を変え、定位を左右にずらすことで楽器を共存させ、残響の長さを調節して耳に残す音を整理していく。
すべてのパートを均等に、とは少し違う。やはりボーカルは中央で他の楽器よりも大きく鳴っていてほしいし、アコギの弦と指が擦れるフレットノイズは、一瞬で消えてしまうからこそ生々しく響く。
すべてを平らに均すのではなく、でこぼこのまま混じり合う。そうやって、美しいバランス(もしくは絶妙なアンバランスさ)で、「すべての楽器が確かに存在している」というミックスに落とし込めたときは、歌詞やメロディーが浮かんだとき以上の幸せを感じた。
そして今、「おかげで、死ぬのが楽しみになった」の執筆を終え、この小説を書くことで自分がなにをしたかったのかが、ようやくわかった気がする。
僕は、世界をミックスダウンしたかったのだ。
忌み嫌われている「死」という言葉に、希望の響きを含ませてみたかった。
小説やドラマで、しばしば脇役が定位置とされる「シニア世代」に、スポットライトを向けたかった。
やたらと生産性を突きつけてくる「現実」に、くだらないダジャレをお見舞いしたかった。
だから正直なところ、僕には声高に主張したい持論があるわけでも、物語を通じて表したい明快な結論があるわけでもない。
傾き過ぎていると感じる天秤を見つけては、反対側にささやかなおもりを乗せる。そんな作業を、物語の中で繰り返していただけだ。
もちろん、僕ひとりが「世界のバランスをとる」と息巻いたところで世界は変わらないだろうし、「自分から見える世界が変わる」という教訓めいたオチもない。それに、僕にとって美しいバランスが、あなたにとっても美しいとも限らない。
周りから見たら、多くの時間と労力を費やして、ムダな抵抗をしているだけに映るだろう。
でも僕は、このいびつに傾いて見える世界に一矢報いることを、やめようとは思わなかった。
と、ここまで書いてまた気づいた。
きっと、小説を書くというムダな抵抗をすること自体が、僕にとって世界のバランスを取り戻す行為だったんだと思う。
自分のような、
意味がないとわかっていることに、それでもこだわってしまう人間だって、この世界にいてもいい。
そう思いたいのだ。
だからこれからも物語を書く。
世界をミックスダウンするべく、せっせとおもりを乗せる。自分なりの美しいバランスになるまで、うんうんと悩み、時に途方に暮れながら、ムダな抵抗を続ける。
時間も労力もかかるわりに得られるのは、「思うように書けなかった」という落胆だったりするけれど、
僕は、もう知っている。
そんな楽ではない日々は、結構楽しいってことを。
そして願わくば、僕が僕のために貫いたムダな抵抗が、意外と誰かのためになったりしたら幸せだなと思う。
ただ、誰のためにもならなかったとしても、そんなオチに僕が笑えるから、やっぱり幸せだ。
というわけで、
僕は、いま、書くのが楽しみでたまらない。
2023年5月 遠未真幸
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