児童発達支援に通っていた、20歳を超えた卒園児が教えてくれたこと。
あるきっかけがありまして、卒園児が15年~20年ぶりに会いに来てくれました。
色々な想いが、本当に頭の中を巡っているのできちんと整理をして再投稿をしたいのですが、ちょっと我慢できないので、先走り投稿をしちゃいます。
15年ぶり以上の卒園児なので、基本20歳以上の方たち。
立派な男性と女性になっている方たちばかりです。
まずは、平日にも関わらず再度訪れようと思ってくれたことへの感謝です。
保護者も含めてよい思い出があるからこそ帰ってきてくれたんだと思いますし、卒園児だって嫌な場所なら来るのを拒否したであろうと思います。
だから、単純に超嬉しい~♪
そして、面白いのは園時代の記憶が明確に覚えている人とほぼ覚えていない方に分かられていました。
若干障害特性的な部分もあるでしょうが、リアクションの明確な違いが面白かったです。
明確に覚えている方の話は、ちょっとドキドキもしますが本当に覚えている。
〇〇の時どうだった、〇〇先生がどうだったと・・・
これがどう意味か分かりますか?
以前、私たちが先生と呼ばれていたころの評価を受けているようなものです😶
ある方は、「先生は僕がこんなことしていたら、怒ったね~」と笑いながら、まるで同士の思い出話のように話をしている人。
またある方は「昔まだ僕は言葉がしゃべれんかったけん、謝ることが出来なかった。あの時はごめんね」と15年以上ぶりに嚙みついたことを話してくれる人。
それから、自分で電話をかけてきて自力でバスと電車を乗り継いで1時間半かけてやってきてくれ、近況報告をしてくれる人(アニメトークで盛り上がる)
勿論、重度の方もいましたが家からなかなか出ることが出来ない方が、私と会えるからと目標にしてくれて来てくれた人
生活パターンが崩すことが出来ない方も合間時間で、来てくれた人もいました。
何に感動したかって、当たり前のことですが障害の重い軽いにかかわらずちゃんと自分の人生を歩んでいることです。
そんな大人になった、通園施設に通っていた方たちには何が大切なのかを改めて学んだように思えます。
療育の世界は、「早期療育」という言葉が定着しています。
私も早期療育は賛成派です。
しかし、勘違いをしてはいけないのが、環境要因として周りに理解者のいる環境にみを置くこと。この環境自体が「早期療育」です。
(この辺もいろいろな想いがあるので、以後詳しく記事にしてみます。)
幼児期に「〇〇が出来るようになる」といった、目で見えるできる力は本人が求めているのではなく、周りの大人が求めているのかもしれません。
「〇〇出来るようになる」というのは、私たち大人のレールの上に乗せてお大人が喜ぶ「出来る力」ではなく、子どもの興味や気持ちを十分膨らませて「〇〇が出来るようになりたい」と自分で気付けるのが大切だということ。
興味がない学習は、意味をなさずすぐに頭からも身体からも抜けていきますが、興味がある内容は長く覚えていますし身体も覚えています。
とうことはですよ、世の中には楽しいことがたくさんあって、自分もやってみたいとどれだけ感じることが出来るのか。
人のことが大好きで、みんなと一緒にやってみたい。先生のように私もやってみたいと思いを馳せることが出来るのか。
やっぱり、協調や協同、豊かな情緒が大切。
こんなの、実は健常児の保育では当然な内容なのですが、障害児への療育となるとちょっとズレがち。
今までしてきた内容で間違っていなかったと、それでいいだよと20歳を超えた卒園児から教えてもらいました。