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余裕

気がつけば、もう、ハタチもとうに過ぎていて、気がつけば、もう、夜中の3時もとうに過ぎていた。

気がつけば、桜は8分咲きで、いつの間にか散っていて、私は大人になっていて、気がつけば、気がつけば、きっと何もかもを過ぎ去ったものとしてしか見ていない。
その場で向き合う勇気がなくて、薄目で日々を見続け、なんとなくでやり過ごした結果、中身など空っぽの、わたしという人間が出来上がったのだ。

かっこいい大人になりたかった。誰かに話した言葉が説得力を持って信じてもらえるような。何もしなくてもそうなれると思っていた、というより、何もしないままでそうなりたかった。

今は知っている。なにも努力をしない人間が、報われる訳などないことを。でも、何の努力もしなくても、環境さえ恵まれていれば、それなりに幸せに暮らせるということを。

3頭身くらいの小さな人間が、無邪気に笑って走っている様をみると、無条件に平和を祈りたくなる。守らねばならないものがあっても、きっと私は自分が一番かわいい気がして、守らねばならないものを持つ事が怖い。

いつでもその気になれば捨てても構わない、そんなものばかり手元に置いて、寂しさを紛らわしているような、そんな気もする。

甘えている。根幹の考えがそもそも甘い。甘すぎて虫歯になる。
甘ったるい考えのまま、悩まなくてもいいことをたくさん悩みながら生きてきたし、この先もそうなのかと思うと、やってられねえと思う。
思考の放棄と現実からの逃避は、この世で私が一番得意とすることで、そんなものを自覚して自己嫌悪に浸ったって意味なんかないということは、分かっちゃいるつもりではあるのだけれど、どうしてもこうして、時々誰かに言い訳して、だって出来ないもんは出来ないんだもん、と、駄々をこねる。
みっともないなぁ、と思いながらも、私は私に甘いので、お前はそれでも頑張っているよ、と声をかけながら、そんな訳あるか、と反論しながら、今日も考えなくていいことを考えて、もうすぐ4時になる。

小さい時から、絶望が怖くて、やりたいことよりやりたくないことばかりに目を向けすぎた。やりたいことを否定されたり、出来なかった時に悲しくなりたくなかった。その悲しみは、きっと必要なものだったのに。

今だってそうだ、出来ないことややりたくないことに目を向けるのは、その方が確実だから。負けたくない、負けたくないなら勝負なんか放棄すればいい。負けるくらいなら勝たなくてもいい。勝てないのならやる意味がない。

どんなに誤魔化しても、私の中にこれがある。

勝ち戦にしか挑まないなんて、なんてダサい生き方なのだろう。全然かっこいい大人になれそうもない。

なのに他人には偉そうに、賢そうな言葉を並べて説教じみた正論をぶつける。勝ちたいから。それなら勝てるから。私に必要なのは成功体験ではなかろうか。小さくてもいいから、成功体験を重ねることで、出来ることに目を向けられるのではなかろうか。勝つ事よりももっと大事なものがあることは分かってる。分かってるけど、勝ちたい、が勝つ。それは、きっと、負けてきたから。負けたことをちゃんと受け入れられてない?いや、受け入れてはきたんだけど、受け止めきれてないというか…
負けたけど、ここは勝ってた、とか、論点をずらして受け入れてたのかもしれない。見たくなくて。
ちゃんとどこが負けていたのかを、受け入れられてなかったのかもしれない。そもそもやっぱり、負けているということすら、受け入れていなかった可能性も全然ある。

考えるのが嫌いだ。嫌いだけど好きだ。
人と話すのが嫌いだ。嫌いだけど好きだ。
眠るのも起きるのも嫌いだ。嫌いだけど好きだ。
生きてるのが嫌だ。嫌だけど好きだ。
彼のことが好きだ。叶わないから嫌いだ。
私のことが好きだ。完璧じゃないから嫌いだ。

完璧ってなんだ、人に優しく自分に厳しく、まともな人生を送れる人。1人でも大丈夫な人。
まともな人生ってなんだ、私は1人でも大丈夫だ。
まともな人生って、部屋が綺麗で、化粧は毎日落としてて、ご飯は自分で作れて、無駄遣いはしなくて、先のことを見据えながら今を生きてて、自分と違う人間のことを考えることが出来て、早寝早起きができて、やらなければならないことに対して的確なアプローチができて、酒を飲みすぎなくて、人のことも自分のことも愛せる人生。

まだ間に合うって、一体いくつまで言ってもらえるだろうか。
ギリギリを攻めるのはわたしの悪い癖だ。

ギリギリを攻めた後のギリギリの成功体験が、今の私を作っている。

余裕がほしい。

2023.03.27