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正しさと若さの持論

喉の為の薬で腹を壊している、私の体は随分と中身がよわよわだったようだ。

私は主観であるが、人は誰しも自分がそれなりに正しいと思って生きていると思っている。それが自信であり、自身であり、それによって自分というものを裏付けているのではないだろうか。根拠はない。

ただ、私も、自分は間違えているかもしれない、と思う自分を正しいと思っているのだろうな、と思っただけなのだ。

自分の正しさを信じる事は、人間としてこの社会を生きていく為に必要だと思う。

自分の正しさ"だけ"を信じると、厄介な事になる危険性もあるけれども、自分の正しさを信じ、他人の正しさを知る事で、人は人となんとかやっていけるのではないだろうか。

こんな真面目な事を書こうとは思っていなかったのに、、、ただ今日も嫌なことがあっても推しの綺麗な顔を見ると何もかもどうでも良くなる瞬間が確かにあるな、と思った事を記して風呂に入って眠るつもりだったのに、気づけばこんな事を書いていた。

先ほど壊れた腹を抱えて駆け込んだトイレから立ち上がった時、ふと思ったのは、若い時に若さゆえの事を考えたり、それをやってみたりしないと、いつか大人になれないのではないか、という事だ。

大人だな子供だの、はっきりした区別など無いのに私たちはいつの間にか子供から大人へと変わっていく。たしかに子供だったのに、気づけば戻れない遥か遠くの大人の場所に立っている。

若さというのは厄介で、余計な事を考えたり余計な事を言ったり、余計な事をしたり、大人になれないけど子供にもなれないまま、その若さを持て余す。

けれども持て余す事こそ、余計な事をしでかしてこそ、若さであり、その過程を経るからこそ大人たる存在になれるのではないかと、若い私は考えるのである。私は大人では無い、遥か遠くの子供から見たら形容だけは大人かもしれないけれど。決して大人では無い。だから大人とはどんなものなのか、果たしてどこからが大人なのか、そういう事がわからないのである。

でも今ふと思うのは、そんな事を考えることがなくなる事こそ大人になるという事なのではないか、という事だ。だからやはり、この仮説が正しいのだとしたら、いつか私はこんな事を考えられなくなるかもしれないのだから、(今まで私が経験してきた"私"という存在はずっと若いという事しか知らないのだから)今のうちに沢山、こんなどうでも良くて何のためにも得にもならない事を永遠に考えては悩んでいなくてはならないのだと思う。

というこんな勝手で何の根拠もない考えも、私は正しいと思っているからこんな誰が見るかも分からない所に書いているのだ。きっと。

私の正しさは私に自信を与えてくれる訳じゃないが、自分というものが何なのかを知らせてくれる。

うんざりする事もあるが、なんだか今日は上手いことまとまった気がするのでこういう事を考える私も悪くないと思えた。

2022.01.12

D.O. Happy Birthday

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