人間の本質
人間を含む多くの動物は、主観的な世界に生きている。どんな人でも主観というフィルターを通してしか世界を認識できない。これは当たり前のことである。
ところが日本語には「客観的」という言葉がある。どういうことなのだろう。これはおそらく、人間が社会的な動物であることに起因して生まれた言葉だと思われる。人間は他者と関わり合いながら生きていく動物である。そのため、生活の中で他者からどのように認識されているかを考えて行動したり、主観的な感情や思考を共有したりする必要がある。動物たちは多くの場合、これをあらかじめプログラムされた本能的な行動によって行う。しかし人間は、他者を明確に認識し、動的に学習しながら柔軟にこれを行うことができる。
当然ながら、認識すべき他者は主観世界の外にいる。ここで主観からの脱出、つまり客観の概念が必要になる。人間は主観世界から抜け出して新たな客観世界を構築し、動物が先天的に持っている本能や性質をメタ的に認識して乗り越えることで、他の生物にはできなかった技術や芸術の発展を成し遂げてきた。知性の本質は客観性であり、他者との交流であり、いわば「伝える」という行為そのものなのだ。SNSの依存性はこの「伝える」という人間行動の核心を抽出しパッケージ化しているからかもしれない。
しかし、この客観世界は完璧ではない。なぜなら前述のとおり、人間は主観というフィルターを通してしか世界を認識できないからである。これはどうやっても解決できない。ゆえに、人が作り出す客観性はすべて虚構なのである。たとえば、人間がコミュニケーションの道具として最も一般的に使用している自然言語を見てみよう。自然言語は、人間が主観世界で認識した事物や行為などに「単語」というラベルを貼り付け、あらかじめ共有し、それらを連ね合わせることで用いられる。しかし、このラベル付けという行為は虚構性を孕んでいる。たとえば、目の前に丸いバラ科リンゴ属の果実が二つ並んでいるとする。当然ながらこの二つは別の物体である。それにもかかわらず、人間はこの二つに「リンゴ」という単一のラベルを付ける。SNS上なんかではよくなんだか話がかみ合っていない議論をみかける、よくみてみるとそれらは前提とするラベル付け、つまり言葉の定義が食い違っているだけ、ということがよくある。
こうしたように、自然言語にはこの世界に本来存在しない意味を恣意的に与えるという、客観的とは言い難い特性がある。宗教や国家、通貨なども同様の理由で虚構である。ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で言っていた「虚構」とは客観性という人間の特殊能力によって生まれるのだ。科学はそれらに比べればかなり客観性が高いが、人間の行う観測と、それに基づく帰納法で成り立っている以上、完璧な客観性には至れない。つまり人間は主観的な世界に生きながら、仮初の客観性に囲まれ、依存しながら生きているという、極めて歪な世界観を持っているのだ。
客観世界は虚構であるがゆえ矛盾する2つの論理は視点を変えるだけでどちらも正しくなる、ゆえに異なる客観世界同士が衝突し戦争や争いが起こる。正論ばかり吐いているタイプの人やキャラクターが、なんとなく「うざい」と感じられるのは、客観的で論理的な言説など、所詮は虚構にすぎないからだ。視点によって「正解」がコロコロ変わるし、なにより私たちは主観的な世界に住んでいる。ところが、私たちは外部に存在する(と思い込んでいる)客観的な価値体系に、精神的にも物質的にも依存している。この拠り所となる価値体系の虚構性に気づくと、人はニヒリズムに陥る。メタ認知を極め尽くすと、自分がわからなくなってしまうこともある。
仏教を「私たちの生活の中に根付いている客観世界の虚構性に気づき、それを受け入れるための教え」と捉えると面白い。ニーチェの超人は客観世界の虚構性を認識したうえで、自ら価値体系を創造し、それを元に生きるいわば客観性の自給自足を目指す理想像だと考えてもわかりやすいかもしれない。
このように、人間に先天的に備わっている主観世界と、後天的に作り上げてきた客観世界や、それによって生まれる状況とのあいだにある不整合は、人間が持つ構造的・本質的で逃れようのない問題である。アドラー心理学を解説した『嫌われる勇気』という本には、「すべての悩みは対人関係の悩みである」という印象的な一節がある。ここで言う「対人関係」というものが、客観性という虚構によって成り立つがゆえに、悩みや苦しみが生まれる源泉になっているのかもしれない。だからこそ今この瞬間に集中せよと、つまり主観的な意識に集中せよと説いているのかもしれない。
主観と客観という、相反する二つのもののあいだで、今日も人間は揺れ動く。この2つの間の無限で埋めようのないのない矛盾こそが人間性の本質かもしれない。