読書って気持ち悪くない?
作者と読者ってやりたいこと違うじゃん?
常々思っているんだけど、本(や広義には文章という存在そのもの)というのはどうもあり方に欺瞞を感じる。
本(文章)というのは基本的に自分が何らかの情報が必要だから読むものだ。
しかし往々にして本というのは読者が想定しているニーズとは合致しない。作者には作者がその本を世の中に出す何らかの目的があり、その目的に沿って設計されている。そして、読者は読者自身の問題を解決するために本を開くわけだが、その目的は作者が狙っている目的とは合致しない。
例えば歴史の本があるとして、作者は既存の歴史認識を覆したくてその本を書いたのに、往々にして読者というのは「僕は歴史のことなんもわからんから一般的な歴史の全体像を知りたいな〜」みたいなふわふわした動機で読むものだ。
そして僕のような浅学非才の貧乏人がリーチできる本なんて限られているので、リーチできる数少ない本の中から目的を達成しなくてはならない。
作者の気持ちなんてわかるわけねえだろ!
真面目に本を読むとなると、
その本の構造を解析する
自分に必要な情報を汲み取る
の2フェーズが必要になると思われる。少なくとも僕はそう考えながら本を読むようにしている。
しかし、ど素人の自分には作者の狙いなんてのはわからないし、その分野の知識なんて何もわからないから本を読むのであって周辺知識やその業界の情勢なんてのも把握できるわけがない。
結局自分のような木端は、まるで鉱山に来たのにそこら辺に転がっているただの丸い石を「やった! これは価値のあるものだ!」と喜んで持って帰るみたいな感じで、本の一節なんかを抜き書きして終わらせるしかない。(そしてそれを後日他人に話すと嘲笑われるのである)
そして、そんなつまみ食いしかできない人間が目的など達せるわけがなく、上手く嵌まらないピースだらけのパズルを前に途方にくれている内に課題の提出期限が来るのである。
俺は一体何を食わされてるんだ?
読書とはこんなふわふわした曖昧なもののように感じられてくる。
not for meな素材しかなく、それを自分で加工しようにもすればするほど現実から離れてしまい他人にとって価値のないものになってしまう。
顔も素性もわからない人間がその人の都合で書いたものを使って、他人が見ても納得するような価値を生み出さなければならない。
正直そんなことできた試しがない。わけがわからない。騙されている気がする。キッショ。超キショいよ、読書なんて。
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