エッセイ
家族についての話
私の父方の祖父は、平安座島から仕事を探すため、沖縄本島に単身で来たらしい。平安座島の魚を神輿にした祭りの話や、昔は潮がひいているときに本島から島まで車で行けたことを懐かしそうに話していた。父の実家には、正月や夏休みなど、行事があるときに顔を出していた。
一番小さい孫だったためか、祖父は私のことを可愛がってくれた。暇さえあれば、海に行き、魚を釣る祖父は、綺麗に捌いた蛸を持ってきたこともあった。
私が、幼稚園生の頃に「バヤリースが好き」と言ったことを覚えていて、大学生になってからも、祖父はバヤリースの缶を一本あげるのだった。普段は無口だが、心優しい祖父が好きだった。
去年、祖父は肺炎が悪化し亡くなった。最後は、声を出すことも出来ず、息も絶え絶えで、苦しげな様子だったと言う。
丁度、同時期に私も甲状腺の病気になり、起きているのがやっとの状態だったため、死に目に会えなかった。
祖父は、自分の死期が分かっていたのだろうか。まだ、歩ける内に1人で写真館に行き、遺影用の写真を撮っていたらしい。死ぬ間際に、タンスにある貯めていたお金を使って葬式を挙げてくれと頼んだという。子どもに迷惑をかけたくないという、祖父の気持ちが痛いほどに刺さった。
祖父が望んでいたのは、質素な葬式だっただろうが、最後ぐらい盛大に挙げようということで、身内でお金をいくらか集め、一番豪華なプランにした。霊柩車はリムジンだった。
元々痩せ型だった祖父の、更にやせ細った亡骸を見て、やるせない気持ちになりながら、父親の実家に戻った。
とりあえず、何か水を飲もうと、冷蔵庫を開けると、一本のバヤリースが置かれていた。祖父は、亡くなる前まで私を待っていたのだ。私は、後悔の気持ちで胸がいっぱいになった。
「ちょっと、来て欲しいんだけどいいかな」
冷蔵庫の前に立ち尽くしている私に、父の姉が声をかけた。
「オジーの財布を整理してたんだけどさ。財布の中にずーっと入ってる写真があって、誰かね?って思っていた訳よ。そしたら、これ、あんたが小さいときにオジーと一緒に写ってる写真でさ。」
渡された写真を見ると、そこには、幼い私を大事そうに抱える祖父がいた。
「オジーはね、時々、財布の写真を見返すことがあってね。多分、会いたかったんだはずね」
祖父の姿が目に浮かび、私は写真を持ちながらただ泣いていた。
高校生のときだっただろうか。祖父が、私にほんの少しだけ話してくれた。
「オジーはね、平安座の前、小さい頃は満州にいたわけさ。満州、知ってるか。あそこは、冬になると、寒くて寒くて、凍えそうになりながら土を掘ってさ。食べるもんもなくて」
私が、満州ってあの?と聞き返したが、それ以上は話さなかった。後で、調べてみると、満州は日本が作った傀儡国家で、日本からは開拓移民が数多くいたらしい。
日本の開拓移民は、医者や満鉄関係者、出稼ぎの者など比較的裕福な暮らしをしていたという。(引き揚げ時は、凄惨だったらしいが)
私の祖父は、裕福とは程遠い生活をしていたようであった。沖縄に来てからも、定職に就くことなく、力作業をしていた話も聞いていた。沖縄が本土復帰する前、食べるものがなかったため、犬や鳩を捕まえて食べていたという。
祖父は、満州国になる前から住んでいた人ではないかと気づいたのだった。
母方の祖母も、日本生まれでは無いらしい。これも、私が大学時代に母親から「オバーはね、戸籍と名前が違うの」と言われ、知ったことである。ただ、どこの国かは分からない。アジアのどこかということであり、祖母にはもう1つ名前があるということだけは確かであった。
母方の祖母は、カタカナしか文字が書けない。とてもおしゃべりで、若い時は美容院や市場など、人との交流があるところで働いていたという。しかし、酷いことを言われ、職が長続きすることは無かったという。私が産まれたときには、既に働いておらず、共働きの両親の代わりに祖母が面倒を見てくれた。
私の母親も、文字を読むことが苦手で、書類に書かれている内容を理解することが難しかった。私は、幼いながらに「母親を助けたい」と思い、小学1年生から漢検を受け続け、高校の頃に準1級まで取る事ができた。(途中から、漢字がただただ好きになっただけなのだが)
祖母は、父方の祖父と同じように、宮古島から仕事を探すために沖縄本島へ来た。祖母の親戚は今も、宮古島にいるため、電話口での会話は宮古方言で話している。沖縄本島と違う、独特なイントネーションと語りで、何を話しているのかさっぱり分からない。
おそらく、祖母は、本を読んだり書いたりすることよりも、言語を話す能力が優れているのだろう。あらゆる言語を知っているが、「沖縄にいるのだから、沖縄の言葉で話す」と強く心の中で決めているようであった。昔の人にとって、故郷を離れるという覚悟はそれ程までに大きいものであることを察した。
特に、祖母は、「日本人になる」ことに強いこだわりを持っていた。
私は、大学まで「日本人であり沖縄生まれ」であると信じて過ごしてきた。家族が、生まれのことを詳しく言わなかったのは、私が混乱しないか、あるいはいじめの対象になるのではないか、物事を正しく理解できるようになってから知った方がいいのではないかと思案していたからであろう。
今、私は一体どんな人で、自分は何であるかわからずにいる。幸いにも、周りの人に恵まれ、楽しく勉強や趣味を続けられ、大学まで通うことができた。たくさんの人に恩返しをしたいが、その方法がわからない。
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