エッセイ⑯
写真について
高校3年生のとき、写真の全国高文連に参加した。(絵画では九州高文連で参加した)
県内から4人が代表に選ばれ、引率の先生と共に会場である佐賀へ向かった。
他の3人は、それぞれ別の高校からで、校内のスタジオでモデル撮影をしているという子から、撮影歴はそこまでないという子まで様々であった。
私も、ポートレートを中心に撮影していたが、高いレンズを買うことはできず、最初に買ったときについてくるレンズキットで済ませていた。(それで十分な性能が備わっているのである)
イベントや、普段のスナップ写真、趣味でコスプレをしている友達の撮影会(カメコ)をしたりと、写真を撮る機会はかなり多かった。
引率の先生は英語科を担当していて、授業終わりに各国に旅行したときの写真を見せてくれたこともある。ときに先生が厳しく指導してくださり、私は気を引き締めて頑張ることができたのだった。
佐賀では、有田町散策をし、それぞれ個別で好きなように写真を撮る時間があった。
その中で、私は「有田焼の職人さんの写真を撮りたい!」ということで、事前に調べていた工房の方に連絡し、実際に足を運んだ。(今、思い返すと、唐突すぎる連絡で、お礼品など何も用意していなかった)
普段、外部の者を招き入れている工房ではないらしく、今回が特別とのことであった。
私が訊ねた工房の職人さんは、一人で作業を行っていた。静かな場所に、精巧に作られた真っ白な器が並ぶ。都会の喧噪から離れた、落ち着いた場所に工房があった。私は、そこで初めて職人と呼ばれる人と話したのだった。
とても物静かであったが、沖縄から来た高校生の私に一つ一つ細かく説明してくださった。宮内庁に納めるための器を作っているらしい。綺麗な百合を象った真っ白な器は、私が思い浮かべていた有田焼とは全く違うものであった。青い絵付けがされた有田焼は、他の人が嫌というほど作っているからだろうか。
ただ、薄暗い中でも存在感を示す器を見て、「ああ、この方は、白い美を愛している職人なのだな」と悟ったのだった。
それからは、ろくろを回しているところの写真を撮らせていただいた。
「職人とは、どういうことなのですか?」というようなことを聞いたと思う。
「私たちの世代では、10年やってやっと形になる。20年やってようやく一人前というものだ。だが、今の若者は、すぐに辞めてしまう。辞めるか、弟子に取ってもすぐに自分の工房を出すのだ。オリジナリティだとかなんとか言って。だが、職人というのは、全く寸分の狂いなく同じ物を、機械に頼らずにいくつも作りだせるかなのだ」と、これまでの経験をふまえてお話してくれた。
私は、素直に「かっこいい」と思ったのだった。その道を究める者にしか語れない言葉であった。
ただ、同時に、今は弟子を取っておらず一人で工房を構えていることも知った。もし、この方が器を作ることが出来なくなれば、この美しさも途絶えてしまうのか。
この全国高文連が終わり沖縄に戻った後、引率の先生に頼み、撮った写真を職人の元へ送った。(送った記憶がある)
せめて、2019年(当時)は健在で職人を続けていて、職人であり続けているという証を残したかったのだ。
それから、全国高文連の作品講評会が始まった。トップクラスの賞をもらっている子による作品紹介を聞くと、一本30万はするレンズと50万するカメラを使い、プロ顔負けの撮影技術や作品の思いを淀みなく話すのであった。その子は、どうやらプロのカメラマンかスタジオを持つことを目標にしているらしかった。そこで、私は、「この写真の道は、私が究めなくても機材や資源、才能がある人が大勢いる」ことに気づいたのだった。この瞬間が、私が写真の道を諦めたきっかけである。
しかし、職人のように一つの道を究めることに憧れはあった。何十年かかってもいいから、関わりたいものを考えると、私はやはり「図書館」に落ち着くのであった。(そのためには、図書館と積極的に関わる必要があるが)大学教授なども、その道を究めている者ということで、一種の職人のように感じる。みな、どことなく浮世離れした雰囲気がある。(筒井康隆『文学部唯野教授』のような世界観だろうか)
写真の道を諦めた、と言いつつも趣味程度には続けている。大学の暗室を使って、フィルムの自家現像ができるようになった。現像液や、印画紙はもう大分出回らなくなっており、サイトで見つけ次第購入している。現像するためにはかなりの工程をふまなければならないが、光の像を紙に焼き写すという写真の原理も知ることができ、新鮮だった。(もしかすると、自家現像できる人の数は少なくなっていて、私でも究められるのかもしれないが、あくまで「図書館」で究めてみたいのであった)
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