エッセイ⑱
漢字について
もともとは、版権作品の過激なBL絵ばかり描いていた人間である。
百合やBLといった作品は、同性愛を売りにしているという批判があるのかもしれないが。
(文字媒体の物語作品は、現代でも古においても、性欲の塊に溢れていると思うのだが)
特に、私は、漢字が好きで文字を読んでいた。
このことを話して、「私も同じ!」という人に出会ったことはないのだが、「漢字」に性的興奮を覚えるのである。漢字検定の勉強で、部首や成り立ちなどを一つ一つ覚える勉強をしたのだが、それをしているうちに、熟語の持つ漢字の意味なども考え、さらに文字を読むのである。
例えば、「淫乱」という文字がある。「淫」という漢字の成り立ちを考えると、
右側は、「手」+「壬(妊婦)」の会意文字で、妊娠した女性に手をだし情事をすることを表す。
そこで、「水」の意味を表すさんずいを組み合わせることで、どこまでも水がしみこむことを示す。
また、「ながあめ」を「霪」と書くことからわかるように、どしゃぶりの雨も意味し、「度を超す」という意味を表す漢字として成り立った。そこに、糸を上下に引っ張る象形文字の「乱」が加わることで(糸を上下に引っ張ると乱れることからきた)糸が乱れるほどに度を超した情事が「淫乱」という漢字の中に見えてこないだろうか。
じょうろを漢字で書くと、「如雨露」となる。元々はポルトガル語の「jorro」からきているが、じょうろの形状や様子から「雨や露の如し」という意味で、漢字を当てはめている日本人の奥ゆかしさには感心したのだった。
ぶらんこも、「鞦韆」と書き、ポルトガル語を意味する「balanco」からきている説もあるが、擬態語から出た名前だと考えられている。そして、小林一茶が「ふらんどや 桜の花を もちながら」と詠んだように、
江戸時代の人々はぶらんこに乗りながら季節の移り変わりを楽しんでいることが読み取れる。
(これが、明治~大正になると、「鞦韆は 漕ぐべし愛は 奪ふべし」という歌のように、愛の駆け引きという意味も含んできている。ロココ美術を代表するフラゴナールの「ぶらんこ」といった海外の絵画のことも日本に入ってきたのだろうか)
そういった感じで、私たちが普段、何気なく使っている漢字も、先人たちの風情や感性が読み取れる材料となるのである。
妄想も膨らむのである。「妄想」の「妄」という漢字自体は、人の死体に何か添えた(人が亡くなる)と、両手を重ねる女性の象形文字の組み合わせで、あまり気分は上がらないが。