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怒りを忘れていないか?

(この記事ははてブからのお引っ越し記事です。)

大坂なおみ選手が、試合後の選手の心の健康が守られていないという理由から会見を拒否した、といったニュースを見ました。

会見拒否騒動、ボイコット宣言など呼ばれる一連の出来事は普段スポーツニュースをあまり見ない自分にとって「大坂なおみという人物が怒っている」「試合終了後の会見の場、またメディアに対して」「アスリートの心の健康という理由」という形で、彼女の人となりの一部を知るきっかけになりました。

選手のケアの体制や必要性ではなく、ダメージを受けざるを得ない構造そのもの(取材をする記者だけでなく、質問の受け答えに期待をするメディアや聴衆?)への怒りだと私は感じました。

この一連の出来事には彼女なりの背景も、大会運営者のルールも一定あり、またアスリートに限らず「プレッシャーに耐えることをプロフェッショナルとしての仕事の一部」とする場面は多々あり、どの程度強さに頼るのか、取り除いてあげるのかに関しては難しい問題だなと、考えます。

この一件で私がとても印象に残ったのは、「社会やその構造に対して怒ることのできる人(怒らざるをえなかった人)」を久しぶりに見たからでした。

似たような印象を受ける人は環境活動家のグレタ・トゥンベリさん。

怒ることはとてもストレスだしパワーがいるし、感情的になったからといって問題が解決されるとは限らないと、私自身も思うし飼い慣らすべき感情だと考えていました。

特に社会人になってからは余計に会社で何かにめちゃくちゃ怒ってる人を見ることがないかも。(ムキー!ってなるレベルのものはあるけど)

問題解決の手段として「怒り」、感情としての「怒り」っていうのは遠ざけられることが多く感じます。

また自分でコントロールできる範疇を超えた出来事(他人に対してや国家とか、社会そのもの)に対しては、

・そもそも怒りや哀しみという一時的な感情を抱くか

・それらが持続するのか(日常生活の中で忘れていく、自分の気持ちの整理をして収束する)

・それらを他者に怒りとして表現するのか

みたいな感じで段階があって、最終的に怒りそのものをエネルギーにする人は少ないのかなと。


けど実際には、怒りを感じる物事って世の中にきっともっとたくさんあると思うんですよね。痛みに慣れたり、やり過ごす術を覚えたり、そもそも目に入らなかったり、するだけで。


何が嬉しいとか、楽しいとかもその人の一部だけど、何に怒るかでその人の目に映る世界が分かって、許せない理由にその人の価値観や守りたいものがあって、表現の仕方に勇気や努力が映るんだなと思います。

同時に最近私は何かに怒ることができているのかなとも。社会の構造の中で救われていない人や物事に関心を持てているのかな、自分より大きなものに怒りを持てているかな、怒りの気持ちを忘れていないか、と考える程度には日和っていそうです。



(感情の中で「怒り」だけがなんか「うまく付き合う方法を学ぶべき」みたいなどうしようもないやつ扱いをされてますよね。許せない。)

以上突然知った大坂選手への敬意が振り切って勢いでブログにしてしまいました。

おわり。

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