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恐るべき公安👮‍♂️②-02公安の歴史「逆コース後の拡大過程」

恐るべき公安②-02公安の歴史「逆コース後の拡大過程」

悪名高い公安の
組織や手口に迫っていきます。

青木理「日本の公安警察」

青木理「日本の公安警察」

青木理(あおき おさむ)
1966年長野県生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクション作家。
90年に慶応義塾大学卒業後、共同通信社入社。
社会部、外信部、ソウル特派員などを経て、
2006年よりフリーとして活動



本格化した情報活動

GHQの政策転換

昨今、🇺🇸CIAが他国の反米政権にクーデターを仕掛けたり、ロシアや中国に様々な工作活動をしていることが明らかになってきたが、戦後の日本でも、労働運動が盛んになるのを警戒して、G2直属の秘密工作機関「キャノン機関」が下山事件、三鷹事件、松川事件などを謀略で引き起こしたことが疑われいる。
そして、それらの事件を足がかりに警察の中央集権化や赤狩りが正当化されていった。

●GHQの政策転換

1949年は、いわゆる公安事件が続発した年だった。
下山事件(7月5日)、三鷹事件(7月15日)、松川事件(8月17日)・・・・・。
いずれをとっても謀略の色が濃く、現在は重要文化財に指定されている
東京・本郷の岩崎邸に事務所があったG2直属の秘密工作機関「キャノン機関」が実行に関わったと指摘されるなど、今も多くが謎に包まれている事件ばかりだ。
しかし続発した公安事件は警察法改正に向けた機運を確実に盛り上げた
5月にはGHQ内リベラル派の代表格だったGSの次長ケーディスが退官、GSの影響力が低下する。
7月4日には、マッカーサーが共産主義非難の声明を発表し、共産党の非合法化を示唆したことも追い風になった。

だが、盛り上がる警察法改正の機運にブレーキをかけたのもまた、マッカーサーだった
同年9月2日、マッカーサーは声明でこう告げた。
(警察)権力はいかなる支配的な党派の手にあるものでもなく、国民の手に握られたもの。(略)現在の機構と人員を持った警察制度では、当たり前の法律や秩序を維持することすらできないというような危険はあり得ない
この声明によって、警察法改正の動きはひとまず沈静化した。

マッカーサーがついに共産党中央委員らの公職追放を指令したのは翌1950年の6月6日のことである。
同月25日に朝鮮戦争が勃発すると、GHQの占領政策は急ピッチで右転回する。
共産党機関紙「アカハタ」の無期限発行停止を指令したのが7月18日。
これに先立つ7月8日には警察予備隊創設が指令され、翌8月にはレッドパージが本格化した。

青木理「日本の公安警察」

東大ポポロ事件

●東大ポポロ事件

GHQから情報活動のお墨付きを得ていた公安警察は、このころからきわめて広範なレベルでの情報活動を展開し始めていた
組織面をみると、警視庁では47年警察法施行後、警備交通部などの下に警備課が置かれていたが、その情報活動は、組織体系から類推される以上に幅と深度を増していた。

「東大ポポロ事件」に対する東京地裁判決(1954年5月11日)は、それを明確に示す。
1952年2月20日、東大劇団ポポロ座が主催した演劇会場に入り込んでいた
警視庁本富士署の公安警察官と学生がもみ合いになり、学生側が警官に暴行をはたらいたとされる事件判決
はこう述べられた。

「(本富士署の公安警察官らは)少くとも昭和25(1950)年7月末以降、
その管内にある東京大学の構内において、警備情報収集のための警察活動を続けてきたものでてあって、その警察活動たるや、私服の警備係員数名が殆んど連日の如く大学構内に立入つて、張り込み、尾行、密行、盗聴等の方法によつて学内の情勢を視察し、学生、教職員の思想動向や背後関係の調査を為し、学内諸団体並びに団体役員の動向、学内集合の模様、状況等について常時広凡、刻明な査察と監視を続けて来た

後に触れる公安警察の活動実態とすり合わせることによってより鮮明になるが、
その情報収集の手法はこのころ、実体面においては完成に近づきつつあった

例えば、内務省公安課に端を発する公安警察組織は、既に国警本部を拠点として
国警・自警を問わず全国の公安警察官を集めて統一的な教育を施していた

警察の地方分権をうたった47年警察法下でそれを理由づけたのは国警本部に付与された「警察教養施設の管理権」だった。
公安警察の中央集権化は着実に進行していた。

青木理「日本の公安警察」

警察法改正

中露の共産主義国の広がりを警戒して、赤狩りが始まり、
それと同時に、A級戦犯などの公職追放の解除が始まり、大日本帝国のファシスト達が社会の中枢に戻れるようになり、対をなすように共産党員の追放と幹部の検挙が着実に進行していた。これら民主化に反する政策転換を「逆コース」などという。この時悪名高い、A級戦犯として公職追放されていた岸信介らが追放解除されたりもした。

●警察法改正

朝鮮戦争勃発の翌年、1951年の元日付「朝日新聞」は1面で警察法改正案を報じた。わずかな期間とはいえ一時は沈静化していた警察法改正の動きが、再び表面化しはじめていた。

記事は国家地方警察の定員増、さらに人口5000人以上の市町村に設置されていた自治体警察の設置基準人口を5万人以上まで引き上げ、廃止によって生じた余剰自治警職員を国家地方警察に編入する改正案が進行中であることなどを伝えた。

改正案は若干の修正を経て1951年5月11日、国会に提出され、
「(47年)警察法の欠陥は財政措置の不備によるもの」
「自治体警察を育てるべきだ」
との声を振り切って
同年6月4日、成立した。

この改正によって国家地方警察は人員、機能ともに強化され、
市町村警察については住民投票によって返上の途が開かれたことで、
1000を超す町村が自治体警察を廃止した。
政府が望む中央集権的警察組織確立へ向け、徐々に足場は築かれていった

1951年から52年にかけては、間近に迫った「講和後」に向けた治安体制の整備が急ピッチで進められた。
その急先鋒が時の法務総裁である大橋武夫だった。

51年9月16日。群馬県内で会見した大橋は、記者団に向かって治安法規制定の目標について驚くべき発言をしている。
「現在の治安取り締まりはほとんどポツダム政令によっているが、
これを講和後は法律化していかねばならない。
このため公安保障法、ゼネスト禁止、集会デモ取り締まり、プレスコード(新聞網領)の立法のほか防諜法案を、できれば批准国会に提出したい

このころ水面下では公職追放の解除が始まり、対をなすように共産党員の追放と幹部の検挙が着実に進行していた。
A級戦犯として公職追放されていた岸信介らが追放解除されたのは、1951年8月6日のことだった。

大橋の言葉どおり、「講和後」を睨んだ治安法規の目玉の1つが、
後に破壊活動防止法として成立することになる団体規制法だった。
水面下での検討を経て最初に登場したのが、1951年5月末に明らかになった「公安保障法案」である。
占領下の団体規制を担った団規令などを引き継ぎつつ、団体への強制調査権や緊急拘束権までも規定し、集会や印刷物の発行禁止まで可能とする強力な治安法規だった。政府は世論動向を図りつつ修正を続け、同年9月末に明らかになる「団体等規正法案」に歩を進めた。

ここで個別法案の詳細までは踏み込まないが、次の新聞記事がその本質を喝破している。
「『団体等規正法案』の内容を一読するに及んで、かねて『国家公安保障法案』の名前で伝えられていた
講和後の政府の治安立法の動向を察知することができた。
(略)『治安』の名においてこのように広範な立法を行うこと自体が、
憲法で保障された日本国民の基本的人権、集会結社、言論出版その他一切の自由権をいちじるしく制約し、
かつ侵害する恐れがある」
(1951年9月30日付「朝日新聞」社説)
法案は一部修正を加えられて1951年10月31日、法務府最終案として、時の与党・自由党に提示された。
だが、法務府の権限拡大に対する旧内務省、警察官僚の反発も強く、
自由党内からさえ異論が噴出するなど折衝が折り合わないまま国会提出は見送られた。

青木理「日本の公安警察」

破防法登場

●破防法登場

1951年9月4日、サンフランシスコでは、世界52ヵ国の代表団が参加し、
日本が占領下から独立国として国際社会に復帰するための講和会議が開かれていた。
4日後の9月8日、ソ連、チェコ、ポーランドを除く49ヵ国が条約に調印。
翌52年4月28日をもって講和条約が発効し、日本が占領体制下から脱することとなった。

政府は講和後の治安体制確立を急ぐ必要に迫られていた
深く沈殿していた法案は1952年2月29日、「毎日新聞」のスクープによって再び浮上する。

「特別保安法案成る」「団体等規正令を一新」との見出しの下に掲げられた記事は
「団体等規正法案」以来、12次にわたる修正検討の末、「特別保安法案」を作成したことを伝え、法案の詳細な中身まで踏み込んで報じた


現在の破壊活動防止法(破防法)とほぼ同体系の構成から成る法案がついに出現したのである。

政府は同法案を土台として3月27日、破防法案を正式発表し、
4月17日、公安調査庁設置法案などとともに衆院に提出した。

破防法が国会に提出された直後の5月1日。
明治神宮外苑広場で開かれた中央メーデーの集会は昼過ぎからデモ行進に入っていた。
このうち本隊から離れた約2000人のデモ隊が「皇居前の『人民広場』使用を吉田政権が禁止したことに抗議する」
として午後3時ごろ、解散地点の日比谷公園から隊列をとかないまま皇居前広場へ入りニ重橋に到達。
その後無数のデモ隊が続々と続き、広場は約6000人の人の波で埋めつくされ、
鎮圧に乗り出した5000人の警官隊と大乱闘になった


警官隊は催涙ガスのほか、ピストルも発砲、乱闘は深夜まで続き、2人が死亡、
2300人が負傷する流血の惨事となった。
この血のメーデー事件に対しては東京で初の騒擾罪(そうじょうざい)が適用され、
警視総監の田中榮一は「計画者、扇動者まで徹底的にやる」と言明。
これを契機に破防法制定に向けた政府・与党内の気運は一気に高まる


当時の報道である。
「メーデーの騒乱事件で一時は驚いた政府と自由党は却って治安強化の絶好のチャンスではないかと考え出している。
中には手放しの喜び方をかくそうとする"知性派"もないではないのだが、
党内の大勢はこの機会を逃すなという逆攻勢にみちており
『わざわざメーデーを催して頼んでくるのだから』と得意さを誇示しているものもある」
(「朝日新聞」1952年5月11日付朝刊)

だが、相変わらず世論の大勢は破防法に否定的だった
例えば5月26、27日に開かれた参院法務委員会の公聴会では、20人の公述人のうち、原案に賛意を表したのはわずか5人。修正論すら2名に過ぎず、13人が原案反対の立場を明確にした
しかし破防法は若干の修正が加えられたのみで、ここでもまた世論の大きな反対を押し切り、与党の国全対策が功を奏した形で7月4日、可決、成立したのである。

青木理「日本の公安警察」

「新特高の中核」警備ニ部

●「新特高の中核」警備ニ部

さて、徐々に完成をみつつあった治安立法の背後で、その実働部隊となる公安警察の機構強化も着実に進められていた

それが端的に表れたのが1952年4月15日に実施された警視庁の機構改革である。
警視庁は同日、警ら部に代わり、警備1部、警備2部を新設。
警備1部は警備課と警衛課を置き、主に警備実施を担当。
警備2部は配下に公安1課から3課までを置き、左右両翼、及び外事事案の取り締まりにあたった。

わけても警備2部は当時のマスコミも「新特高の中核」とまで指摘するほどの組織だった。現在の警視庁公安部の原型にもなった部門で、一時は「公安部」の名称が冠されることを検討したとも言われる。

配下の公安1課には庶務係のほか3つの係が置かれ、
1係では共産党潜行幹部の捜査、組織情報を担当。
2係は共産党の軍事活動を調査し、
3係では共産党関連の文書収集を行った。

公安2課は労働運動、文化・学術団体などの情報収集を実施し、
1係で左翼、2係が右翼を受け持った。
公安3課は外事を担当し、1係が旧ソ連、東欧圏を中心とした欧米、
2係は朝鮮半島、3係が朝鮮半島を除くアジア全体と割り振られた。

新設された「新特高の中核」警備2部がいかに重要な意味を持っていたかを語るには、そのトップに配置された幹部を見てみるのが最も手っ取り早い。

警備2部長に着任したのはのちに警視総監を務め、参院議長にもなる原文兵衛。
部下の公安2課長には、のちに警視庁副総監、内閣調査室長を務めた後、宮内庁長官となる富田朝彦。
公安3課長にものちの警察庁長官、山本鎮彦が配された。
まさに綺羅星のごとく、警察官僚のエース級の人材ばかりが配置されたのである。

重要部門にエースが配されるのが当然ならば、その部門の手足となる実働部隊の人員が増強されるのもまた、
当然のことだった。警ら部警備課時代の1951年末にはわずか150人程度だった担当警察官が、警備2部だけをとってみても、新設後の52年末には約600人にまで増強された。なかでも公安1課の活動は群を抜いていた。

また1952年4月9日には内閣調査室の前身となる内閣総理大臣官房調査室が
総理府の組織として創設された
ことも挙げておかねばならない。
詳しくは7章で触れるが、この時に創設された同室は
1957年8月に内閣法の改正及び内閣官房組織令に基づき内閣調査室となり、
現在の日本を代表する公安情報機関の1つに成長している。

青木理「日本の公安警察」

非合法手段も訓練

●非合法手段も訓練

講和による占領体制の終焉に伴って実施された機構整備によって、公安警察は現在の原型ともいえる体制を整えたのと同時に、その活動の実体面でも組織化、大規模化を進めた。
当時における公安警察の活動の実際を伝える資料は少ない。
だが、その中でも栃木県警本部が作成した「栃木県警備警察概要」は、4章で詳しく触れる公安警察の秘密部隊「サクラ」(4係)をはじめとし、今も続く公安警察の活動が、このころから全国的に軌道に乗り始めていたことを示す貴重な文書である。文中で党と述べられているのは共産党を指す。

「本県4係が、県党組織、活動の実態把握を目標として、基本ルート究明に着手、
本格的に班活動を開始したのは、昭和27(1952)年12月である。
当時、芳賀地区委ランナーTを投入して、有力な協力者として指導育成し、
これを運用しながら幾多の悪条件を克服しつつ、尾行、張込、基礎調査等の反復及協力者獲得活動、秘匿撮影等の諸活動を総合的に展開した結果
昭和28(1953)年4月には、一応班活動も順調な進展を示すに至り、その後引き続き着実な活動によって、
県党非組織、就中県V事務部を中心とする一連の非活動家の解明に成功し
更に同年10月には、県V事務仕事場、同キャップのポスト及アジトの獲得に成功
中央、地方、県、地区各級機関の各種資料及び活動記録等の入手に成功し、
同年末から本年2月にかけて行われた県党合非組織の全面的改編の実態と
その活動を把握するに至ったことは、今後の班活動推進上にひ益するところ
極めて大なるものがあり、その後引き続き現在に至る迄成果の維持拡大に努力中である」

青木理「日本の公安警察」

伊丹万作「騙されることの責任」

もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

伊丹万作「騙されることの責任」

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より


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