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恐るべき公安👮‍♂️②-01公安の歴史「特高警察の解体と警察民主化」

恐るべき公安②-01公安の歴史「特高警察の解体と警察民主化」

悪名高い公安の
組織や手口に迫っていきます。

青木理「日本の公安警察」

青木理「日本の公安警察」

青木理(あおき おさむ)
1966年長野県生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクション作家。
90年に慶応義塾大学卒業後、共同通信社入社。
社会部、外信部、ソウル特派員などを経て、
2006年よりフリーとして活動



特高警察の解体と警察民主化

特高警察の猛威

戦前、戦中は、「治安維持法」数々の治安法が制定され、共産党の危険性を煽ることで、予算を獲得し、肥大・強化されていった特高警察が、戦争中は「反戦活動」を妨害し、「反戦を言い出せない雰囲気」を作り上げることで、広島・長崎に原爆が落ち多くの犠牲を出し、本土が空爆され大量の死者が出ても、「保身」で降伏できなかった背景がある。
現代では、「すべての通信を監視する大量監視システム」と公安警察と「対テロ戦争の大義名分」により、全く同じ状況が作られていることに着目して歴史を見ていきたい。

●特高警察の猛威

1945年8月15日、日本は焦土の中で敗戦を迎えた。
この敗戦は、日本国内において長きにわたって続いていた苛烈な思想統制とその弾圧の終結をも意味した
戦前、戦中における国内での思想統制と弾圧は、1925年に成立した名高き悪法「治安維持法」に代表される数々の治安法と、それらの成立と相前後して肥大・強化されていった特高警察などによってなされた。

1911年8月、警視庁が警視総監官房高等課から
特別高等課(特高係・検関係)を分離したことに源を発する特高警察は、
続く翌1912年の大阪府に始まり、
1928年7月に全国的に特高課が設置されたことで日本国中に網を広げ、
思想取り締まりのための政治警察として予防検束、
拷問を繰り返して猛威をふるった
警視庁を例に取れば特高課員は最盛期で750人以上を数え、
全国の特高課は各県知事の命を受ける県警察部長の指揮下にあったにもかかわらず、現実には内務省警保局保安課長の直轄下に置かれて暗躍した。

治安維持法の成立から敗戦を迎えるまでの約20年間、
日本においては思想、言論、集会、結社、市民生活などありとあらゆる自由が統制下におかれ続けた
これを理由づけたのは「戦争遂行」という”大義”であり、
この“大義”を名目として監視、管理、抑圧が正当化されたのである。

青木理「日本の公安警察」

「公安課」の誕生

なぜ、戦後も大日本帝国を信望するファシストを駆逐できなかったのか?と言うと、アメリカ軍の配下にCIC(陸軍諜報部隊)を置く「参謀二部(G2)」が、
「元特高関係者を雇って日本国内の情報収集や謀略活動に利用」し、「味方のスキャンダル探し」などに便利に活用したため、駆逐されず生き残り、再び令和にファシスト国家を築くことになった。
公安警察は、他にも内閣調査室、公安調査庁へと連なっていく。

●「公安課」の誕生

しかし、敗戦によって、すべてではないにせよ、抑圧の機能は不全状態に陥った。
連合国軍総司令部(GHQ)は1945年9月22日、
秘密警察組織を解消するなどとした「降伏後における米国の初期対日方針」
を示して日本に戦時体制の転換を要求。
続いて同年10月4日、「人権指令」(政治的・市民的及び宗教的自由制限の撤廃に関する覚書)を発して以下の即時実行を求めた。

(1)治安維持法などの治安法規を廃止すること
(2)政治犯、思想犯を即時釈放すること
(3)一切の秘密警察機関、検関などを営む関係機関を廃止すること
(4)内務大臣、警保局長、警視総監、特高警察官を罷免すること

この指令によって、特高警察の総元締めだった
内務省警保局長ら計約5000人の内務官僚や特高関係者が追放され、
投獄されていた約3000人の政治・思想犯が釈放された

この時点で、特高警察が有していた行政警察・予防警察としての強大な機能は、
そのほとんどが失われたのである。

とはいえ、管理と統制に慣れきっていた政府が、失った拠点を直ちに取り戻そうとするのも当然であった。
敗戦直後から内務省は治安警察組織の増強を図り続け、占領下にあってさえ
「特高警察は秘密警察、政治警察ではない」「法を忠実に執行していただけ」
とその正当性を主張する声も絶えることがなかった


解体されたばかりの特高警察に代わって、
内務省警保局内に「公安課」が新設されたのは1945年12月19日のことである。
これが本書のメインテーマとなる現在の公安警察の源流であり、
組織に「公安」という単語を冠した治安警察組織が出現した瞬間だった。
「人権指令」からわずか2ヵ月しか過ぎていない時点の出来事だった。

一方、「人権指令」によって、日本政府に民主化を指示したGHQ内部にも、早い段階から民政局(GS)と参謀二部(G2)の内部対立という矛盾を抱えていた。
中でも配下にCIC(陸軍諜報部隊)を置き、情報・保安・占領地行政などを司っていたG2では罷免、あるいは追放された元特高関係者を雇って日本国内の情報収集や謀略活動に利用した。

内務省OBらがまとめた『内務省史』にも
秘密警察として追放された日本の特高警察を密かに利用したのも参謀部第二部であった」と記され、
旧日本軍の情報将校も同様に利用されたとみられている。
G2は警視庁にGS幹部を尾行させてスキャンダル探しを狙ったこともあったと言われ、こうした人脈は後に、公安警察はもちろん、内閣調査室、公安調査庁へと連なっていく

とはいえ、日本の戦時体制解消という目的に向かっていたGHQ内の対立は激しく表面化することはなく、とりあえずは1947年、内務省は解体を迎えることになる。
それは日本の戦前警察組織にとっては決定的な転換点だったのである。

青木理「日本の公安警察」

"治安のシンボル"を温存

戦前・戦中に、「反戦」などの民意が全く反映されなくなった理由に、「内務官僚」による支配があった。内務官僚たちにとって、中央集権的な警察組織は"治安のためのシンボル"であり、自らの力と権益の源泉でもあった。
中央集権的な警察や憲兵、特高を指揮することで、全国隅々まで国民の思想や行動を支配し、「官僚支配の根幹システム」になっていた。
昭和や令和の時代でも、公安や警察を指揮することで「官僚支配」が可能となり、民主主義が奪われた。

●"治安のシンボル"を温存

さて、時計の針を内務省解体へと進めていく前に、「人権指令」からわずか2ヵ月後に内務省警保局内で産声を上げた「公安課」を中心とする治安組織の実態とその背景についても触れておこう。
当時の日本国内では、敗戦後の食糧不足などを背景にした食糧要求運動や生産管理運動が頻発していた。
政府・治安当局はこうした事態に対応することを名目とし、
1946年7月、GHQから警備情報収集の承認を受けた。

同時に、手足となる機構上の強化も図られた。
1946年8月1日、警保局内に新設されていた公安課が、
社会運動取り締まり強化を目的として公安1課と公安2課に分離。
間もなく情報収集強化のために大増員が図られ、これらに歩調を合わせる形で各警察署に公安係、各県にも公安課が整備されていくのである。

また1945年9月には内務省に調査部が設置されている。
46年8月に局に格上げされた同部は、内務省解体後に総理庁に移管。
48年2月に法務庁特別審査局となり、破防法制定とともに現在の公安調査庁となる。

既述のとおりGHQは極端に中央集権化された日本の戦前型警察機構の解体を指示していた。
だが日本政府・内務省は中央集権的警察組織に強く固執した。
1946年9月21日に内務省警保局が作成した「警察制度改革案」がそれをよく表している(広中俊雄「警備公安警察の研究』)。
同案はこう記した。「警察の作用には個人のためにその生命、財産を保護するという自警的サービス的なものと、国家意志たる法令の執行を強制して治安を確保し、
国家の統一を保持するという権威的なものと2つの作用がある。

(略)殊に軍隊のない後の日本においては、この権威的な治安確保の作用は
警察のみにおいて担当せねばならぬ」

内務官僚を始めとする当時の日本政府に、内務省の解体や中央集権的警察機構を解体する意志など全くなかった。
内務官僚たちにとって、中央集権的な警察組織は"治安"のためのシンボルであり、自らの力と権益の源泉でもあったからだった。

青木理「日本の公安警察」

GHQの警察観

戦前10ヶ年間における日本の軍閥の"最も強大なる武器"は、中央政府が、都道府県庁も含めて行使した「思想警察及び憲兵隊に対する絶対的権力」である。
これ等の手段を通じて、軍は政治的スパイ網を張り、言論集会の自由更に思想の自由まで弾圧し、非道な圧制に依って個人の尊厳を堕落させるに至った。
なので、「日本を支配する官僚たち」は何がなんでも手放したくなくて、必死の抵抗をした。そのため、国民を顧みない自らの権益と権力的発想によって描く"理想的な治安像"を守るのに必死だった内務省は、特高関係者の罷免緩和をもGHQに求め続けた。

●GHQの警察観

日本政府は1947年2月28日、警察制度改革案を初めてGHQに対して提出する。
参謀二部と連絡を取りながら作成したとの見方もある案で、
一部に分権的要素を取り込んだものの、内務大臣に道府県警察の監督権や幹部の任免権を付与するなど中央集権的組織を温存する意図が色濃く、GHQ側は強い不満を表明
同年4月30日、GHQ民政局長名で覚書が出され、内務省は解体への道を余儀なくされることになる。

だが内務省側の反発も強かった。
同年7月31日に警保局企画課が作成した「警察の地方分権に関する考察」はこう記している(前出『警備公安警察の研究』)。
「凡そ如何なる政治形態の民主主義的国家においても、それが国家として成立する以上、国家の意思を執行する権力機関を持たぬ国家はない。軍隊及び国家警察がそれである
自らの権益と権力的発想によって描く"理想的な治安像"を守るのに
必死だった内務省は、特高関係者の罷免緩和をもGHQに求め続けた


一方、47年6月に発足した片山哲内閣は警察を国家警察と自治体警察の2本立てとする1歩進んだ民主化案を作成する。
この案すら内務省には不満が渦巻き、当時警保局公安2課長だった原文兵衛(のち警視総監)が
憤慨し、内務大臣室に押しかけて(略)警察分断反対を訴えた」(「元警視総監の体験的昭和史」)
と振り返るほどだったが、9月に入ると片山は直ちにマッカーサーに裁定を求めた。

GHQ内部に民政局(GS)と参謀二部(G2)という対立構造があったことはすでに記した。この間、参謀ニ部は日本案に理解を示し続けたと伝えられるが、民政局は強く反対した
マッカーサーは最終的に民政局の意見を採用し、9月16日、片山哲宛に書簡を発し、さらに強力な警察の地方分権を命じた

GHQの姿勢が完全に民主的な姿勢で貫かれていたなどと述べるつもりは毛頭ない。
だが少なくとも、書簡にしたためられた警察観は戦前の日本を覆っていた警察制度の悪弊を完全に喝破したばかりでなく、今も通用しうる民主的警察の在り様を提示した

高度の中央集権化された警察官僚制を設置し、これを維持することは、
(略)近代全体主義的独裁制の顕著な特徴
である。
戦前10ヶ年間における日本の軍閥の最も強大なる武器は、
中央政府が、都道府県庁も含めて行使した思想警察及び憲兵隊に対する絶対的権力である
これ等の手段を通じて、軍は政治的スパイ網を張り、言論集会の自由更に思想の自由まで弾圧し、非道な圧制に依って個人の尊厳を堕落させるに至ったのである。
日本は斯くて全く警察国家であった。
(略)中央集権的統制に不可分に付随する警察国家的可能性は最も注意して避けなければならない
占領軍という絶対権力者の命を受けた日本政府は、この書簡に沿って警察法作成、
内務省解体を進めることを余儀なくされた

青木理「日本の公安警察」

47年警察法

47年警察法は、「戦前型の中央集権的な警察組織を完全に否定した」ことで素晴らしいものだったが、よく思わない政府が、勝手に法を無視して反故にし、「負担金は打ち切り兵糧攻めにする」ことで、民主化警察を潰し、中央集権化、全体主義化に転換することができるように工作していった。

●47年警察法

新たな警察法は1947年11月10日に国会に提出され、同年12月17日に公布、翌48年3月7日に施行された。
続いて同年12月31日、内務省もついに解体されるのてある。
「揺りかごから墓場まで」を制すると称された内務省の解体によって、
戦後日本における警察制度の民主化は終了した


47年警察法の特徴は、戦前型の中央集権的な警察組織を完全に否定したということに尽きた
国家警察的組織としては国家地方警察が置かれたが
市及び人口5000人以上の町村には市町村警察を設置する権限を与え、
東京の特別区警察として警視庁を設置した。
だが「市町村警察は、国家地方警察の運営管理または行政管理に服することはない」(54条)
とされ、その運営は完全に国から分離し、市町村公安委員会の管理下に置かれた、
きわめて徹底した「地方分権的警察像」を示したものだった。

もちろん、この警察法に日本の国情に合致しない不備な点があったのも事実であろう。
だが、「権威的治安確保のための警察機構」を願う政府と警察官僚が
おとなしく47年警察法の精神に沿った警察民主化に邁進するはずもなかった。

施行後、わずか1ヵ月しか時を経ていない1948年4月27日、片山内閣を引き継いだ首相芦田均はこう発言した。
「自治警察と国家警察の2本立ての結果が、治安維持の上で欠陥があることが現実となって現れた」

当時の警察官僚たちの発想も同様だった。
「日本のような民度の低い国で、市町村にまで警察権を委譲して、
(略)果たして治安が保てるかどうか
」(石井栄三、のちの警察庁長官、『日本戦後警察史』より)
「要するに、日本を弱くしようという大方針だった。(略)こんな制度は長続きしない、いずれは元に戻るだろうからこんなものに力を入れるべきでないということを、半ば公然と言った」(新井裕、のちの警察庁長官、同前)

政府は自治体警察弱体化の策として"兵糧攻め"を選ぶ。
当時、自治体は甚だしい歳入不足に苦しんでいた。

インフレによって人件費はかさみ、焼け跡復興で土木費などの出費も強いられた。
そんな中で政府は「市町村警察に関する費用は地方自治財政が確立するまで国庫、都道府県が支弁する」
と定められていた47年警察法の規定を反古
にし、間もなく負担金は打ち切られ、
当該地方公共団体の負担とされてしまった
のである。

各地で労働争議が頻発していたことも事態を後押しした。
政府内で新警察制度の不備を指摘する声が高まるのと時を同じくし、
経費面で圧迫を受け始めていた自治体側からは
「経費不足から警察後援会のボスが警察運営に影響を与えている」との訴えが出始め、財政が整っていない弱小の自治体からは警察返上の希望が続出した。

政府は機を見逃さなかった。
1949年1月、第24回総選挙で民主自由党が過半数を獲得すると、吉田茂は第3次の組閣によって基盤を固め、治安体制の整備に乗り出す。
このころ朝鮮半島では朝鮮民主主義人民共和国の樹立が宣言され、
中国大陸では毛沢東率いる人民解放軍の進撃が続き、新中国の誕生が目前に近づいていた。

日本においても民自党が過半数を占めた49年1月の総選挙では、
反面で共産党が4議席から一挙に35議席を獲得する躍進ぶりを見せていた。
日本を反共の砦にしようと思考し始めたGHQの占領政策の転換が、
中央集権的警察組織を欲する日本の為政者たちの思惑と一致
を見せるようになる。

青木理「日本の公安警察」

伊丹万作「騙されることの責任」

もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

伊丹万作「騙されることの責任」

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より


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