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恐るべき公安👮‍♂️⑤-01右翼と公安の友好「右翼と公安の体制側の”憲兵”」

恐るべき公安⑤-01右翼と公安の友好「右翼と公安の体制側の”憲兵”」

悪名高い公安の
組織や手口に迫っていきます。

青木理「日本の公安警察」

青木理「日本の公安警察」

青木理(あおき おさむ)
1966年長野県生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクション作家。
90年に慶応義塾大学卒業後、共同通信社入社。
社会部、外信部、ソウル特派員などを経て、
2006年よりフリーとして活動



右翼と外事

体制側の"憲兵"

戦後の右翼勢力は、その存在意義である「国体護持」とともに
「反共」を力の最大集約点として活動を繰り広げてきた。
「反共」こそが戦後右翼を支える柱であり、それ故に「自民党、あるいは体制側の憲兵」としての役割を果たすことも多かった。
反共カルトの「児玉機関」などが作られ、与党の憲兵として支える一方、
言論弾圧に加担し、「民主主義を破壊し続けて」きた。
安保闘争を機軸に運動を展開して高揚した左翼陣営に対し、
自民党、財界、右翼は連合して革新に対決した」という状況だったし、
「『反共』でさえあれば自民党でも任俠でも警察でも仲間だという方向に進んでしまう
」のが戦後右翼勢力の現実だった。
現在は、与党だけでなく、立憲民主党や国民民主、連合などの野党も懸命に
「反共」を掲げることで、大政翼賛会的な反共連合を目指している節が見られる。

●体制側の"憲兵"

戦後の右翼勢力は、その存在意義である「国体護持」とともに
「反共」を力の最大集約点として活動を繰り広げてきた。
「反共」こそが戦後右翼を支える柱
であり、それ故に自民党、あるいは”体制側の憲兵”としての役割を果たすことも多かった。

ロッキード事件で逮捕された児玉誉士夫はその代表的存在と言えよう。
1911年、福島県に生まれた児玉は1928年ごろから右翼運動に入り、第2次大戦勃発後は大陸に渡って海軍特務機関「児玉機関」を主宰諜報謀略活動に没入し、戦後はA級戦犯として収監されたが、1948年になって釈放された。

かつて「右翼の6割を握っている」と語ったという児玉は釈放後、大陸で集めた資金と政界への強いパイプを駆使して闇の世界を駆け上がった。

政界と暴力団、右翼団体、あるいは財界までをもつなぐフィクサーとして権勢を誇り、ある意味において戦後右翼を象徴する存在だった。
1960年に予定されていた米大統領アイゼンハワー来日計画では、警察の警備の不足を右翼によって補おうとした首相・岸信介自民党幹事長川島正次郎を通じて児玉に働きかけ、児玉は警察当局と打ち合わせて計画を練ったとも言われる。

また70年安保闘争を目前に控えた1968年1月19日、佐世保に原子力空母エンタープライズが入港すると、左翼陣営が激しい反対闘争を繰り広げたのに対し、児玉らは「エンタープライズ入港歓迎」を訴えて現地入りした。

安保闘争を機軸に運動を展開して高揚した左翼陣営に対し、
「自民党、財界、右翼は連合して革新に対決した」(堀幸雄「増補戦後の右翼勢力」)という状況だったし、
「『反共』でさえあれば自民党でも任俠でも警察でも仲間だという方向に進んでしまう」(鈴木邦男『新右翼族派の歴史と現在」)
のが戦後右翼勢力の現実だった。

青木理「日本の公安警察」

右翼と公安警察

「右翼」は過激なテロ行為に走る治安紊乱の要因であると同時に、
反共カルトである公安警察官たちがさほどの思想的齟齬をきたさず
一定の共感すら持って情報収集にあたれる対象
という特徴がある。
闇夜に乗じた発砲事件にしても、多くは公安警察と右翼との間で交渉が持たれ、
互いの面子をつぶさない形で『解決』が図られた。
刑事部における暴力団捜査ときわめて類似した業務形態であり、
馴れ合いに陥っている。

●右翼と公安警察

それ故に、公安警察にとって戦後の右翼は、
時に思いがけぬほど過激なテロ行為に走る治安紊乱の要因であると同時に、
公安警察官たちがさほどの思想的齟齬をきたさずに、言葉を換えれば、
一定の共感すら持って情報収集にあたれる対象
でもあった。

時には右翼団体主催の集会に右翼担当の公安警察官が入り込んでもほとんど問題にならなかったし、団体事務所に日常的に公安警察官が出入りすることもあった。
街宣車の窓から身を乗り出す右翼団体メンバーと
公安警察官が親しげに話している様子を目にすることも珍しくはない

それが右翼団体に対する公安警察の情報収集の形態だった。
例えば、公安警察内で右翼を担当する実働部門の中枢、
警視庁公安部公安3課に所属する公安警察官の最大の任務は、何よりも事前にテロ情報を認知し、「何かやる」とほのめかす右翼団体に行動を思いとどまらせることだった

事件を起こされてしまっては『負け』とも言えるわけだが、
右翼による事件は現行犯で逮捕されることがほとんど
だったし、
戦後の右翼テロは2章でも触れた浅沼社会党委員長刺殺事件、
「風流夢譚」事件などの例を挙げるまでもなく、多くが単発のテロ事件だった。

左翼と右翼によるテロの違いについて新右翼団体「一水会」代表の鈴木邦男が簡潔に記している。
「三島(由紀夫)にしろ過去の右翼テロリストにしろ、自分は逃げ隠れせずに堂々と出てゆき、言うべきことを言い、行動を起こし、その責任は自分で取って自刃する。これほど潔く、堂々としていることはない」(前出・同)

闇夜に乗じた発砲事件にしても、多くは公安警察と右翼との間で交渉が持たれ、
互いの面子をつぶさない形で『解決』が図られた

刑事部における暴力団捜査ときわめて類似した業務と言えよう。

だが、例外がないわけではない。
古くは1961年12月、戦後唯一のクーデター未遂事件が警視庁によって摘発されている。

青木理「日本の公安警察」

三無事件

「三無事件」は、昭和のクーデター未遂事件。
歴史研究グループ」が自衛隊の一部幹部と共謀してクーデターを計画していたことから発覚した。現在も同じく「歴史研究グループ」と称した櫻井よし子などの歴史修正主義者が、自衛隊に盛んに出入りして講演し、靖国神社に参拝したがる自衛隊や警察の右傾化に貢献している。日本のみならずG7でも、法律や憲法、民主主義を骨抜きにし、「上からのクーデター」が進行中である。

●三無事件

事件は造船会社「川南工業」の元社長、川南豊作を中心とし、元海軍中尉三上卓、元陸軍少将桜井徳太郎ら旧軍人、学生らのグループによって企てられた。
ライフルや軽機関銃で武装した川南工業の従業員らが国会に乱入した後、
社会党などの議員を殺害して"臨時政府"を樹立する計画
だった。

川南が全般の企画や資金調達などを、
他のメンバーが自衛隊への協力工作などを担当する予定だったが、
同年12月12日、警視庁公安部によって計画段階で摘発された。
検挙のきっかけを当時警視総監だった原文兵衛はこう記している。

「捜査は昭和36(1961)年9月ごろ警視庁公安部が得た『歴史研究グループが自衛隊の一部幹部と共謀してクーデターを計画している(略)』
という情報によって開始
された。
公安部の捜査官は彼らの会合場所に張り込んだり、彼らの会談内容を録音テープにとったりして、苦心の結果次第にその全容を明らかにしていった」(『元警視総監の体験的昭和史』)

当時の警視庁公安部長は秦野章だった。原文兵衛はまた、こんな感想も記している。
「クーデター計画としては幼稚、未熟、武器の入手や動員計画も杜撰(略)。
しかし、実行されていたら、クーデターとしては成功しなくても、
要人の死傷という犠牲者の出る可能性は十分にあるのであって、
計画を未遂に終わらせることができたのは、たいへんよかった
と思っている」(同)

青木理「日本の公安警察」

伊丹万作「騙されることの責任」

もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

伊丹万作「騙されることの責任」

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より


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