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恐るべき公安👮‍♂️②-03公安の歴史「安保闘争を経て公安ネットワーク完成へ」

恐るべき公安②-03公安の歴史「安保闘争を経て公安ネットワーク完成へ」

悪名高い公安の
組織や手口に迫っていきます。

青木理「日本の公安警察」

青木理「日本の公安警察」

青木理(あおき おさむ)
1966年長野県生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクション作家。
90年に慶応義塾大学卒業後、共同通信社入社。
社会部、外信部、ソウル特派員などを経て、
2006年よりフリーとして活動



新警察法の誕生

中央集権を目指して

●中央集権を目指して

公安警察に限ってみれば、すでに中央集権的な警察組織が復活しつつあったとはいえ、実効性を高める意味でも、全国的に意思統一された"公安神経"を法的に裏付けるシステムの創出が求められていた。
そのために、警察の完全な地方分権をうたった47年警察法は絶対に乗り越えなければならない"障害"だった

1953年1月30日。
首相・吉田茂は施政方針演説で警察法に言及し、こう述べた。
「政府は治安の確保のため、警察制度の改革を必要とし、近く法案の国会の同意を求めるつもりである」

この演説が現実のものとなるのは同年2月26日のことだった。
政府はこの日、国家地方警察と自治体警察の2本立てを廃止した上で、
中央に警察庁を置き、長官に国務大臣を当てて都道府県警本部長の人事権を付与するなど完全な中央集権的警察機構を目指す警察法案を国会に提出した。
自由党内からは各省なみに専任の「治安大臣」を置くべきだとの主張が出る中での法案提出だった。

同法案に対しては東京都議会が反対決議をするなど各自治体から
「警察国家を再現する危険性がある」との反対論も噴出、国会の解散によって成立を見ることはなかった。
だが、1年後の54年2月15日、新たな警察法案は改めて国会に上程される。
警察庁長官に国務大臣を当てるという1文は削除されたものの、

(1)警察を都道府県警察に1本化する
(2)中央に警察庁を設置する
(3)国家公安委員長に国務大臣を当てる
(4)警察庁長官は都道府県警察に対し、幹部の人事権及び所掌事務について指揮監督権を持つ


との内容だった。現在の警察法の姿がついに現れたのである。

青木理「日本の公安警察」

強行採決

民主化警察を廃止し、戦前・戦中と同じ中央集権的な警察への脱皮を可能にする「新警察法」は激しい反発にあった。
特高警察の総元締めだった内務省警保局長を務めたことのある次田大三郎ですら
「戦前に比べて比較にならぬほどの大きな弊害を生ずるおそれが多分にある。
物事は能率だけて可否が決められるべきであろうか
弊害の再び生ずることを防止するための工夫は講ぜられてないようである。」
とまで、言うほど戦前以上の巨大な国家警察国家にしてしまうような法律だった。
この時、公安の教育訓練として、全国の公安警察官を集めた「警備特別講習」が警察大学で行われていることが明らかになった。その講習では「家宅侵入方法」などを学んでいる。「犯罪行為に対して良心が痛む」と言った警官に対しては、アカ認定などがされており、警察内で「良心の欠如が共産党でない証」のようにカルト化していったことが伺える。

●強行採決

新警察法に対してはもちろん、激しい抵抗が繰り広げられた
自治体警察を抱える自治体の中では、中小都市が賛成の意向を表明したが、5大都市を中核とする自治体警察連合会が反対にまわるなど大都市が異論を唱え、野党を始めとして法曹、言論、市民団体なども「警察の中央集権化を図るものだ
として反対運動を展開した。反対の声を挙げたのは野党や市民団体ばかりではなかった。

特高警察の総元締めだった内務省警保局長を務めたことのある次田大三郎ですら、
「読売新聞」(1954年3月27日付)に次のような1文を寄せた。
「これは戦前のそれよりももっともっと強大な国家警察を創設するもので、
従って戦前に比べて比較にならぬほどの大きな弊害を生ずるおそれが多分にある。(略)警察の能率増進だけを考えれば改正法案は理想案であるかも知れぬ。
しかし物事は能率だけて可否が決められるべきであろうか。(略)
この法案は能率の回復ないしは増進のことばかりを考えて
弊害の再び生ずることを防止するための工夫は講ぜられてないようである」


次田が最も危惧した
警察庁長官の強大な人事権は修正が加えられたものの、
吉田内閣は日本の議会史上初めて国会内に警官隊を導入する事態を引き起こして
会期延長を繰り返し、激しく、広範な反対運動を押し切って採決を強行
した。
成立したのは同年6月7日。
警察の地方分権を高らかにうたった47年警察法はわずか5年強で、その姿を消したのである。

新警察法成立の過程において、国会でも激しい論戦が繰り広げられた。
この中で期せずして公安警察の活動内容について、
いくつかの注目される事実が警察側から明かされた


5月28日に行われた参院地方行政委員会での名古屋市警本部長、
国警埼玉県本部警部の参考人公述は、
全国の公安警察官を集めた「警備特別講習」が警察大学で行われていることを認めた上で、
その期間が「50日程度、参加者は40人程度」
「受講生は警備係の警部、警部補で、国警本部の課長級が講師にあたっている」と明言。
また講習が「52年4月ごろから始まり、現在までに13期600余名ぐらいの警察官が教育を受けて地方で活躍している」と述べた。

講習内容は名古屋市警本部長が「習った生徒の報告」として
「相手の留守中に見張りを2人以上置き、住居侵入によって文書を盗み取ったり、
カバンや事務所の中から文書を盗む方法、鍵の開け方、
協力者という名のスパイ獲得法を教えられたらしい。
(協力者の持ってきた手紙だけでなく)
郵便配達人を抱き込んで信書を見ることも教わったと報告を受けた」

などと証言。
名古屋市警本部長はさらに29日、衆院地方行政委員会でもこう述べた。
「講習会で内容の意外さに驚いた。"こんなやり方では良心的に警察官の職務を遂行できぬ"と漏らしたところ、のちに名古屋の警官はアカではないかといわれた」

青木理「日本の公安警察」

公安部の誕生

戦前特高警察の規模を「公安警察」は上回るほどの巨大な国家警察国家になり始めた。さらに1700人規模の「公安調査庁」が存在し、社会運動の団体や個人に対しては、これらの「公安警察」と「公安調査庁」2重の無駄な監視態勢ができあがっている。

●公安部の誕生

1954年に世論の大反対を押し切って成立した警察法の特徴と、それによってもたらされた公安警察的な「効能」をごく簡単に整理すれば、

(1)警察組織の中央集権化
(2)それによる公安警察の機能強化
(3)公安関係予算の大幅増
――の3点に尽きた。

一方、警視庁では1957年4月、きわめて象徴的な公安警察の組織改編が行われる。
従来の警備1部が「警備部」に、そして警備2部が「公安部」に移行したのである。
現在でも全国の都道府県警組織で部の名称として「公安」の文字を冠しているのは警視庁公安部だけである。
首都警察における公安警察の重要性がうかがえる体制とも言えるが、その誕生の瞬間だった。

新生「公安部」の下には、従来の資料班が格上げされた公安4課を含め、1課から4課までが置かれた。
さらに1959年9月には外事部門を担当していた公安3課が「外事課」として新設される形で再編される。
これもまた、特高警察の廃絶以来、姿を消していた「外事」という文字が
警視庁に復活したという意味において、象徴的な出来事
だった。

小樽商科大教授の荻野富士夫は著書『戦後治安体制の確立』で次のように指摘している。
「治安機構全体の人的・物的な実力からいえば、(略)
早くも1950年代には戦前特高警察の規模を「公安警察」は上回るほどである。
さらに1700人規模の公安調査庁が存在し、社会運動の団体や個人に対しては、
これらの2重の視察態勢ができあがっている」

54年警察法の制定によって、公安警察の力は確実に強化されていた。

青木理「日本の公安警察」

安保闘争と右翼テロ

市民運動が高まると、黙らせるためにアンチの右翼の凶悪テロ事件が増加する相関関係がある。安保闘争の高揚に"呼応"する形で右翼によるテロ事件も続発した。

●安保闘争と右翼テロ

1959年10月、日米安全保障条約改定に関する日米交渉が東京で開始される。
いわゆる「60年安保」と呼称される条約改定問題は、59年から60年代にかけての最大の政治問題となり、60年1月の岸首相ら全権団ワシントン出発、5月の警察官国会導入による与党のみでの会期延長、そして条約承認までの間の反対運動は、期間、規模ともに空前の広がりを見せた。

一方、安保闘争の高揚に"呼応"する形で右翼によるテロ事件も続発する。
1960年10月12日、翌月に迫った総選挙のため池田勇人・西尾末広・浅沼稲次郎の
3党首立会演説会が開かれていた日比谷公会堂で、演壇に立った浅沼社会党委員長が聴衆の面前で17歳の右翼少年に刺殺された。
前後して、河上社会党顧問刺傷事件(60年6月)、岸首相刺傷事件(同7月)、
さらには61年2月1日、雑誌「中央公論」に掲載された深沢七郎の小説「風流夢譚」が、皇室を侮辱した内容であるとして中央公論社長の家に押し入り、
お手伝いを殺害し嶋中夫人にも重傷を負わせた
、いわゆる「風流夢譚」事件が起きる。

これらの治安情勢を名目とし、警視庁公安部では61年3月、
それまで公安2課に置かれた1つの係だった右翼係を公安3課として独立させる。
さらに外事警察も整備が進み、61年4月には警察庁の警備2課が外事課として再編されたほか、翌62年3月、警視庁公安部でも外事課が外事1課と外事2課に分割・強化された。

青木理「日本の公安警察」

緊迫する60年代後半

●緊迫する60年代後半

さて、この段階での警視庁公安部の組織を振り返っておこう。
見てきたとおり、急速に整備が進んできた警視庁公安部には共産党や労働団体、
右翼団体を担当する公安1課から3課、さらに公安関係資料の整備・保存に当たる公安4課を設置、
外事関係ではアジア地域以外を外事1課、アジア地域を外事2課が所管する体制が取られ、
すべての課に最小でも2つの係(公安2、3、4、外事2課)、最大では4つの係(公安1課)が置かれるようになった。

一方、警察庁警備局でも63年4月、警備2課の係だった資料部門が資料課として独立。
65年4月には大幅な機構改革が実施され、外事以外の公安警察を指揮していた
警備局警備1課が、公安1課、2課に分割・強化され、機動隊運営など警備実施部門を受け持っていた警備2課が警備課として再編される。

この間、60年に勃発したベトナム戦争は65年から本格化し、
日本国内でも広範な層にベトナム反戦運動が広がった
ほか、
同年6月に調印された日韓基本条約をめぐっては、成立阻止を訴える反対運動が60年安保闘争に次ぐ規模で展開された。
さらに成田空港建設の閣議決定(66年7月)、佐藤首相の一連の訪問外交に反対して発生し、安保闘争以来最大の流血デモになった羽田事件(1次羽田事件は67年10月8日)、東大紛争(68~69年)、国際反戦デーに起きた新宿騒乱事件(68年10月)など左翼運動は高揚を見せ、これを口実に公安警察の膨張も継続した。

青木理「日本の公安警察」

公安警察の完成

戦前の特高が「権力者の擁護者」としてのさばったのと同じように、
戦後公安警察の拡大を正当化したのは、結局のところ徹底した「体制の擁護者」としての組織性癖だった。権力者や体制側を擁護して、「敵の足を引っ張る」「出る杭を打つ」「強い者には媚びる」「同調圧力をかけて弱者を従える」という手法を駆使することで、拡大が正当化されていった。そして、大日本帝国の官僚と特高が戦後の日本でも生き残り、令和にファシスト国家として再び蘇ることになった。
戦争遂行を大義として猛威をふるった治安機構は、水脈の維持を図るため、占領下になると一転して時にはGHQの一部とすら結託し、講和後は為政者の描く治安像を死守するため、わずかの期間に一挙に態勢整備を成し遂げた。
また、学生運動を敵視し、学生運動を専門に統括する、公安3課が新設されるなどして、徹底的に民主主義に反する仕組みが整えられていった。

●公安警察の完成

1960年に改定された日米安保条約は70年6月22日で10年間の固定期限切れを迎えた。
この日政府は「引き続きこの条約を堅持する」との声明を発表、翌23日から自動延長されたが、全国では学生、市民らが広範に結集し、反安保統一行動が取られた。

また同年3月31日には、赤軍派学生ら9人が日航機「よど号」を乗っ取る日本初のハイジャック事件が発生。
爆弾テロが相次ぐなど、公安警察流の言い方を借りれば治安情勢は確かに緊迫の度を増していた。だが実を言えば、日本の公安警察はこの後、組織・機構面から見れば若干の改編を行うのみで、この段階ですでに「昭和45年(70年)を迎える前に『70年安保闘争』の結末は見えていた」
「いまや警備公安警察がきわめて強力なものになっている」(前出「警備公安警察の研究」)と評されるほどに進化しており、その整備は、少なくとも組織機構面では完成を迎えていた

特高警察と同様、戦後公安警察の拡大を正当化したのは、
結局のところ徹底した「体制の擁護者」としての組織性癖
だった。
戦争遂行を大義として猛威をふるった治安機構は、水脈の維持を図るため、
占領下になると一転して時にはGHQの一部とすら結託し、講和後は為政者の描く治安像を死守するため、わずかの期間に一挙に態勢整備を成し遂げた
のてある。

その「若干の改編」のみ指摘しておけば、大学闘争が激しさを増した68年12月、
警視庁公安部に公安総務課が新設され、共産党関係が同課に移管されて
従来の公安1課は学生運動に特化されたこと、
そして72年5月、警察庁警備局に学生運動を専門に統括する、公安3課が新設されたことなどが挙げられよう。

いずれも70年安保を機に激化した学生運動に対応した公安警察の再編だった。
もちろん、これ以降も人員面では公安警察官が増強され、
予算面でも引き続き軽視できないほどの強化が図られていくことになる

例えば70年安保を目前に控えた69年度だけでも公安警察官1000人、機動隊員2500人、外勤警察官1500人が増員されこれ以降も人員・予算ともに増強が図られていく
だが、組織・機構面でみれば、70年安保を前に行われたこれら一連の機構改革によって、警察庁警備局を頂点とし警視庁公安部を代表とする公安警察はその整備をほぼ終え、「緊迫した治安情勢」を押さえ込むに十分な現在の体制を築き上げたのである

青木理「日本の公安警察」

伊丹万作「騙されることの責任」

もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

伊丹万作「騙されることの責任」

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より


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