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公安の手口🚓②-01公安組織と歴史「巨大すぎる警備警察」

公安の手口②-01公安組織と歴史「巨大すぎる警備警察」

新右翼の「一水会」の元会長が、公安警察に追われて使われた
エゲツナイ卑劣な手口の数々を「公安警察の手口」の本を元に
見ていきます。

鈴木邦男「公安警察の手口」

鈴木邦男「公安警察の手口」

鈴木邦男(すずき・くにお)
1943年福島県生まれ。67年、早稲田大学政治経済学部卒業。
70〜73年、産経新聞社に勤務。
学生時代から右翼・民族派運動に飛び込み、72年に「一水会」を創り、「新右翼」の代表的存在になる。99年12月に「一水会」会長を辞め、顧問になる。現在、月刊「創」など にコラムを連載中。
主な著書に、『新右翼』(彩流社)、『夕刻のコペルニクス』(扶桑社文庫)、『言論の覚悟』(創出版)、『ヤマトタケル』(現代書館)などがある



警察は必要だ。しかし・・・・・・

●警察は必要だ。しかし・・・・・・

はじめに言っておきたいが、警察そのものは必要だ。
どんな時代になっても、なくなることはない。
いつか国境がなくなり、国家がなくなったときは、軍隊はなくなるだろう。
だが警察は廃止できない。廃止する必要もない。
たとえどんな理想的な社会になったとしても、交通事故はあるだろうし、
泥棒、強盗、殺人などの事件もあるだろう。

政治的、あるいは宗教的革命によって、そうした犯罪や事故もなくせると考える人がいる。
昔はぼくもそうしたユートピア社会の到来を信じたこともあった。
皆がキリストや孔子のようになり、他人に迷惑をかけないで生きるようになれば、
嫉妬もなく、争いもなく、盗みや殺人もなくなるだろうと考えていた。
しかし、それは無理だ。
というよりも性急にそうしたユートピアを考えるのは危険だ

鈴木邦男「公安警察の手口」

【公安が目指す死者のユートピア】

【公安が目指す死者のユートピア】
皆が欲望を捨て、どんな状況でも不平を言わないようになれば犯罪はなくなるかもしれないが、それでは個人の向上欲もないので競争原理が働かず、社会の活力もなくなるだろう。生きていても面白味がない。そうした世界は、いわば「死者のユートピア」だろう
一部の指導者が(いかに聖人君子であっても)、
「なぜ自分のようにやれないのだ」と怒り、
「理想社会」を上から強制的に作っても、やはり「死者のユートピア」
になる。
なぜなら、権力者にとってはユートピアでも、住んでいる人民にとっては地獄だからだ。
警察のない社会を夢みることはかえって危険だ。

人間が存在するかぎり争いは生じる。
だから、調停する人間は必要であり、警察も必要だ。
人間には競争心や向上欲がある。それは欲望や嫉妬、憎悪にもなる。
それをどうコントロールし減らすのか、私たちはその方法を真剣に考えるべきだろう。
その意味で、警察の仕事は重要だし、ご苦労なことだと思う。
報われることが少なく、それでいて命をかける仕事だ。

鈴木邦男「公安警察の手口」

巨大すぎる警備警察

●巨大すぎる警備警察
これだけを押さえておいて次に進む。これからが本題だ。
日本の警察組織には大きく分けて二つの機能がある。
「刑事」と「公安」
だ。
よく新聞にも「刑事部と公安部」の対立と書かれることがある。
あるいは「刑事警察」と「公安警察」の対立、
「刑事」と「警備・公安」の対立、と書かれることもある。

警視庁には公安部があるが、他の県警は全て警備部のなかに公安課があるからだ。
刑事警察は泥棒や強盗、殺人事件を追うのが仕事だ。
一般の人々にとっては「警察」といえば刑事警察が全てだ。
前に述べたとおり、ぼくも刑事警察は必要だと思う。
たしかに、警察の不祥事や、強引で違法な捜査や冤罪の発生など、問題点はある。
しかし、基本的には刑事警察は必要なものだ。

それに、刑事警察は非政治的なものだ。
つまり、政権が自民党から民主党になろうと、
あるいは(あまり可能性はないが)社民党や共産党になろうと、
変わらずに存続するものだ。
政権が変わったら急に泥棒や殺人事件や交通事故が減ったとか、
増えたなんてことはない


それに比べて、もうひとつの機能である「警備・公安」の方は政治的なものだ。
そして攻撃的なものだ。
まず警備の機能は主に、機動隊運営などの警備実施、
災害時や雑踏での皇族に対する警護などである。
警備警察といえば、首相官邸や国会や政府要人の警備を思い浮かべる人が多いだろう。
かつて学生運動を経験した人ならば、デモの警備をする機動隊を思い出す人もいるだろう。
「我々は整然とデモをしていたのに機動隊に殴られた」とか、
「蹴られた」
という人もいる。
警備といいながら、やたらと挑発的だし、攻撃的だ

警備も、今のようなあまりに巨大化した警備は必要ないが
「最低限」なら必要だろう。
なぜなら、警備の〈敵〉であった左翼は当時の1000分の1から10000分の1になって絶滅寸前なのに、警備警察の組織規模は当時のままだからだ。
それどころか、今でも増殖し巨大化し続けている。
「警備・公安」と一緒くたに括られることが多いが、
そのなかでも純粋な警備は最低限は必要だと思う。
しかし、問題は公安だ

鈴木邦男「公安警察の手口」

公安警察と刑事警察の違い

●公安警察と刑事警察の違い

日本の警察組織では、たとえば警察庁では警備局の下に公安課がある。
警視庁では警備部や刑事部と同格に公安部がある。
地方の県警では警備部のなかに公安課や公安係がある。
この公安が、本当をいうと最も悪質であり、そして必要のないものだ。
そのくせ、警察のなかでは最も大きな顔をしている。
「俺たちこそが日本を守っているのだ」という自負を持っている。
それは錯覚にすぎないのだが、それが鼻もちならない。


そもそも「公安」とは、「公の安全」「公共の安全」を守るという意味らしい。
その主な機能は、右翼や左翼、その他の思想的、宗教的な過激集団の情報を収集し、その動向を監視することにある
さらに、不穏な動きがあったらすぐに逮捕する。
可能であれば、事件が起きる前に一網打尽にする。
たとえ不幸にして事件が起きても、そのときは8割がた仕事は終わっている。
なぜなら事件を見れば、「これは○○派による犯行だ」とすぐに犯人を断定できるからだ。
それだけ公安には情報があるし、過激派のことなら知り抜いている。
さらに協力者(スパイ)も多数抱え、情報収集には万端を期している

鈴木邦男「公安警察の手口」

【公安警察がなぜかエリートで出世する】

【公安警察がなぜかエリートで出世する】
また、公安はエリート集団だと言われている
公安の出身者たちが、どんどん警察組織のなかで出世し、偉くなる。
公安は、警察組織のなかで偉くなるための通過点なのだ。
しかも、彼らには「俺たちこそが警察であり、俺たちが日本を守っている」
という自負というか自惚れがある。


公安警察官が持つこうした自負は一般の国民には分かりにくい。
一般の人々から見たら、〈警察〉といえば交番に勤務しているお巡りさんであり、
駐車違反をしたときに切符を切るお巡りさんであるため、
公安の実態を垣間見ることがほとんどない
その他には、〈警察〉と聞いて思い浮かべるイメージとしては、
「火曜サスペンス劇場」や「土曜ワイド劇場」で活躍する刑事さんだろう。
一般的には、こうした「お巡りさん」や「刑事さん」が
日本の治安を守っているのだと考えられている。
ぼくもそう思っていた。

刑事さんには実際に会うことはないが、二人組で靴を擦り減らして聞き込みに歩き、それで犯人を捕まえる。それが警察の代表だと思っていた。

鈴木邦男「公安警察の手口」

【公安警察の勘違いと誇大妄想】

【公安警察の勘違いと誇大妄想】
ところが、公安は自分たちこそが警察だと思っている。
彼らの理屈はこうだ

「刑事警察は泥棒や殺人犯を捕まえる。
しかし、そんな犯人は取り逃がしたところでたいした影響はない。
日本という国家にヒビが入ることはない。
ところが自分たち(公安)は、日本に暴力革命を起こそうとか、
クーデターを起こし日本を引っくり返そうとしている連中と闘っているのだ。
自分たちがちょっと目を離し、捜査の手をゆるめたら、
たちまちこの日本は混乱に陥る。
だから、この日本を守っているのは自分たちだ」

このような自負を公安は抱いているのだ。

鈴木邦男「公安警察の手口」

【泥棒や人殺しを捕まえるのなんて、どうでもいいと言うおかしな価値観】

【泥棒や人殺しを捕まえるのなんて、どうでもいいと言うおかしな価値観】
「泥棒や人殺しを捕まえるのなんて、どうでもいい。
この国を過激派から守るのが警察の仕事だ」

断言する公安もいる
どんなに交通事故の件数が増え、
泥棒や殺人事件がいくら増えようとも(社会不安はあっても)、
それが原因で国家が引っくり返ることはない。
ところが右翼や左翼やカルト宗教などはこの日本そのものを破壊・打倒しようと計画している。
「そうなったら国家の安全も平和もない。
だから、右翼や左翼のような「日本の敵」から国家を守るために
命がけで我々は働き、闘っているのだ」

というのが公安の論理だ。

鈴木邦男「公安警察の手口」

【頭のおかしなイデオロギー警察】

【頭のおかしなイデオロギー警察】
左翼や右翼だって何も日本を滅ぼそうとして運動しているわけじゃない
だが公安は、「いや、右も左も現体制を暴力でもって打倒しようとしている」と決めつけ、自分たちの存在意義をアピールしている
つまり、これで分かるだろうが、公安はきわめて政治的だし、思想的なのだ。
イデオロギー警察でもあり、彼らなりの理論武装をしている

それに、何よりも不気味なのは、闇に隠れていて絶対に表に姿を現わさないことだ。

鈴木邦男「公安警察の手口」

伊丹万作「騙されることの責任」

もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

伊丹万作「騙されることの責任」

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より


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