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[暮らしっ句]春浅し[俳句鑑賞]

 春浅き 峡田にぽつんと案山子あり  上藤八重子

「案山子」は昨秋に片付け忘れたものですね。田の準備がはじまる時期には真っ先に片付けられるもの。それがあるということは、まだ準備がはじまっていない。
 春の兆しを詠む句が多いですが、春の兆しがまだ見えないことを詠んで「春浅し」とした。何十年も「峡田」を見続けた者ならではの視線。こんな短い言葉の中にも歳月が織り込まれている。
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 手鏡に うすき埃や 春浅し  阿部紀子

 冬の間、お化粧を整えて外出する機会がほとんどなく「手鏡」に埃が…… この句もまた春の風物詩を詠まずに、春の気分を表現した作品。内面に兆しがわいてくることもある。
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 膝折つて 選ぶ骨董 春浅し  小林奈穂

 おそらく縁日の露店のことでしょう。寒さが厳しい時期には、足を止める気にはならなかったけど、今日は「膝折つて」、少し時間をかけて品定めしたと。「膝折つて」がポイント。「腰おろし」じゃない。中間的な姿勢と「春浅し」を対応させている。
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 春浅し 夫婦仲良く庭手入れ  篠田三七子

 表面的な意味は、少し暖かくなったので夫婦して庭に出たということですが、「春浅し」ですからね。
 穿った見方をすれば、冷え切った季節を潜り抜けた、という含みがある? ずっと順風もいいですけど、つらい時期を越えて手にした幸せには、ありがたみ、深みが違うのでしょうね!
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 春浅し 二世帯同居に迷路あり  遠藤実

「二世帯同居」、距離はないのに意思疎通はまるで「迷路」のよう。困ったことです。しかし、作者は楽観している。「春浅し」ですから、あと少し待てばいいんだと。とかく目の前の問題にとらわれがちですが、もう少し長いスパンで見られるというのが大人ですね。そしてその余裕は周囲の人もラクにする。春の訪れをイメージできる人に春が訪れる!
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 思ふこと 何か遠くて 春浅し  岡本眸

 冬の間、春は彼方にあり、視線は遠くに向けられていた。すでに梅も七分咲きだが、まだそのクセが抜けきらず、彼方を見てしまう……。
 と、この句だけだと、そんなふうにしか読めませんが、次の句を見ると、ハッとさせられます。作者の視線の先にある「春」は、この世のものではないかもしれません。
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 春浅し 夫在るやうに茶を淹るる  安武晨子

 同居している家族を亡くした方なら経験されていることですが、たとえば食事中に具合が悪くなって救急車……そのまま病院で亡くなると、家に戻ったら食べかけの食事がそのままあるわけです。このトースト、あの人がかじったのよ! 今朝のことよ! それがどうして…… そんな日々はしばらくつづきます。持ち物なんか数か月くらいではまったく変化しませんからね。
隣の部屋にいる気がするし、悪い夢でも見てるんじゃないかと首を振ったり、ドアが開いて帰ってくる気がして玄関に座り込んで待ってみたり。
 作者はお茶を入れたわけです。もしかしたら「お茶が入ったわよ」と声に出したかもしれません。いつもそうしてたように。もちろん返事はありませんが、「でも、そういう時もあった。区切りがついてからやって来る時の方が上機嫌だった……」
 春になれば、すべてが再開される。「夫」もまた何食わぬ顔で……
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 生涯に恋の句ひとつ 春浅し  松本平八郎

 愛した女は生涯、お前(妻)ただ一人! という意味でしょうか? どうも違うようですね。「春浅し」ですから。片想い? でも、昔のことを「春浅し」とは云いません…… 素直に読んだ方が良さそう。
「生涯」に詠んだ「恋の句」は一つだけ。時期と相手はわからない。少年時分のことなのか、片想いで終わった相手なのか、結婚する前に妻に贈った句なのか。あるいは、結婚後の出会いなのか……
 この句から伝わってくるのは、作者において、それが良き思い出であるということ。
 老人ホームで見聞きしたことを紹介すると、大正から昭和のはじめの生まれの女性の多くは、お見合い結婚でしたが、それで不幸ということは全くありませんでした。特養には恵まれた人が多かったということはあるんですが、知らない相手と一緒に家庭を持つことにした、という前提が良い結果につながったように思えました。
 愛情まで求めるのは贅沢なことで、ちゃんと働いて家にお金を入れてくれて、問題がなければ、それでいいという心構え。その無欲さが長続きにつながり、ふりかえったときに「いい人だった」となるようです。
 なんですけど、しかし、恋愛に関心がなかったかというとそんなことはありません。ひつこく問いただすと、淡い恋の思い出が出てくるんですよ。こう云っては何ですけど、ほんのちょっとしたことなんです。一回だけ言葉を交わせた、みたいな。でも、それがずっと残っている。ほんのり光り続ける宝物。幸せな家庭を持てたことと、恋愛の淡い思い出は別なんです。
 でも、それをグスグズと思い出せば、いやらしくなる。けじめじゃないですけど、毅然とした心持が必要。この句は、おそらくそういう句。「生涯に恋の句ひとつ」というのは、ダラダラ思い出さないという自戒でもある。その一線があるから、思い出が色褪せない。
 したがって、この句の「春浅し」は「春」に移ろわない永遠の「春浅し」です。「春浅し」には、そんな意味を持たせることも出来る。

 蛇足になるかもしれませんが、
 先の句ではもう二度と、夫のいる「春」はやってきません。しかし、「春」を待てばつらいけれども、すでに手の中には幸せな時間がある。デリカシーのないたとえをすると、来月から収入がないとなっても、すでに一億円もってるじゃないか、という話。
 夫が定年退職してから、楽しむつもりだったのに…… というのは「春」を待つ感覚。仕事に追われる夫を支えるだけで終わったのは、ある意味、「春」のない夫婦生活だったかもしれませんが、しかし「浅い春」を過ごせたわけです。「浅い春」が「春」に劣るというのは偏見。
 西行は桜の下で永眠することを願って願いがかなったようですが、わたしなら桜の前ですね。探梅を愉しんだ後、白木蓮が満開になる前までがいい。
 今が一番、いい季節~


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出典 俳誌のサロン 
歳時記 春浅し
ttp://www.haisi.com/saijiki/haruasasi1.htm


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