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[暮らしっ句]紅葉1[俳句鑑賞]

長くなったので分割しましたが「紅葉2」に続きます。

「向こう」編
もう一つの世界が感じられ作品を集めました。
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 果てのいろ と知りて見にゆく 黄葉紅葉  直江裕子

 紅葉見物にはフィナーレという性格もある。そこが桜とは根本的に違うとところ。ただ、それは高齢者や親しい人を亡くした方に意識されることで、意識した者だけが紅葉の「向こう」を探り見る。人によって見えるものは、それぞれでしょうが、ある人曰く、あの世に向かう人の背が見えるとか。
 あの世に向かう時には振り向いてはいけない。振り向かせてはいけない。ただ、紅葉のあるところ、その後ろ姿をもう一度、見送ることが出来る…。
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 修善寺の 紅葉の下の大阪弁  中路間時子

 大阪からの観光客がいた、というのはいわば表層意識。その深層は定かではありません。そこに鑑賞者が自分の思いを宿らせることが出来る。
 今回、過ったのは、わけあって遠い地からやってきた人の墓。修善寺には、そんな人たちの墓もあると。
 わたしの生家は関西ですが、近くのお寺に、戊辰戦争で亡くなられた人たちの墓地がありました。決して無縁墓地状態ではなかったのですが、お参りの頻度は少なく、そこだけ時が停まっているような場所でした。
 縁者がいるなら、どうして引き取らないのか? この句にふれて、ふとそんな疑問がわきました。これまでそんなことは思ったことがなかったのですが、不思議です。ただ、その答えは考えるまでもないことで、事情がある、ということなのでしょう。
 たとえば、息子は戦いに人生を賭けたとか、一緒に戦って共に死んだ仲間達との絆こそが一番だとか、そう思えば、故郷に連れ帰ることは、必ずしも良いことではない。
 そういえば、嫁いですぐに亡くなったお嫁さんの遺骨をどうするのかと。そんな話し合いがありました。いずれ再婚する夫の邪魔になるという意見のほかに、実家に引き取れば、出戻りになると云う人もいました…。
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 鳥さわぐ 紅葉明りの 籠堂  木村仁美

 紅葉と古刹、見物するには良い取り合わせですが、質的には違いますね。お堂の中は闇。それは人の意識にも似ている。あれやこれやと思うことは、暗がりから外を眺めるようなもの。
 心は水鏡のようなものである、という教えもありますが、そのたとえでは、外の世界を静かに、ありのままに映すのがよいとされます。揺れると像がゆがみ、その歪みが妄想となり、苦しむことになると。
 そう教えられても、なかなか難しいのですが「難しい」と思えば、それもまた水鏡を濁らせることになる。ありまま映すというのはどういうことか? その実例がこの句にあります。
「鳥さわぐ」と「紅葉明かり」… 「鳥さわぐ」というのは、不測の事態、悩ましい問題の象徴。トラブルは絶えず起きる。しかし、鳥の鳴き声を嫌悪すれば、そこから不満、苦しみが生じる。トラブル=苦難ではありません。ゲーム好きの人たちはそれに挑戦したくて、わざわざゲームをやるくらい。苦しみや喜びは出来事のほうにあるのではなく、受け止める意識にある。
 一方、「紅葉明かり」は、嬉しい出来事の象徴。お金も払ってないのに、努力したわけでもないのに、よくしてもらえることもある。
 蛇足ですが、「鳥さわぐ」と「紅葉明かり」は、音と光の性格の対比で、トラブルは否応なくやってきますが、うれしい出来事はそちらに目を向けて気づく必要があるという比喩にもなっている。
 わたしにとっては、人様の句が「紅葉明かり」……。



出典 俳誌のサロン 
歳時記 紅葉
ttp://www.haisi.com/saijiki/momiji1.htm


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