[暮らしっ句]草 苺[鑑賞]
草苺 摘みては食みて 味はへり 宇田紀代
草いちご 昔と同じ刻動く 斉藤小夜
今の科学者はタイムマシーンなんてムリといいます。
未来の科学者はおそらく肉体を冷凍して、無理矢理こじ開けた時空の亀裂にカプセルを撃ち込んだりするのでしょう。しかしそんなふうにして肉体を異なる時空に運べたとしても、心がそのままだという保障はありません。
一方、市井の人は、たとえば草いちごをつまんで口にする。たったそれだけであの頃に戻れることを知っている。肉体こそ移動できませんが、幾つになっても心は、ひとっ飛び~
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残る青の時代や 草苺 山田正子
でも、あの頃が幸せだったというのは、後になって脚色された思い出。本物のあの時は、傷だらけ。ほら、涙が出てきた。あの時もどうしようもなかったけど、今だって、どうしようもない。
娯楽映画では過去を変えようとするけれど、わたしには未だに答えが分かりません。あんなこと云わなければよかった? あんなことしなければよかった? 違う違う、やり直せばゲームになってしまう。あそこでしくじった、つまずいた、傷つけた、逃げた、ひきこもった…… それが青の時代。
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牧場の ここがはづれか 草いちご 伊藤妙
牧場に生えたものは牛なのか馬なのかにすべて食べてられてしまう。だから、草いちごがある場所は、牛や馬の来ない場所……。なんて解釈をしてみたのですが、もし当たっているなら、好きですね。そういう感覚。
草いちごを見かけて、「遠くへきたもんだ」と気がつく。
世界の果てにあるのは荒野なんかではなく、つつましい花や果の幸うところ。そんなものいくら喰っても腹の足しにもならん! そんな強欲者の来ない場所。
そうか、お宝を手にして世界の果てでひっそり暮らすというのは、そもそも発想からして間違ってた。草いちごのような小さな小さな価値なんてないものが息づいている場所、そこが変わり者の安息の地で、ただ、そこに辿り着けばよかったのか……、
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少年の秘密の谷間 草苺 柳川晋
思い出されたことがあります。小学生の高学年の時のこと。ふだん遊ばない他のクラスのガキ大将と山にカブトムシを採りに行ったんです。わたしもよく行く里山だったんですが、ルートが別。
「絶対に、ひとには云うなよ」と念を押されながら、ズンズン、ズンズン登っていった。自分が登る範囲の二倍くらいの距離。ひと山越えたところに、彼の秘密の場所があった。たしかに、カブトムシが何匹もいた。
クワガタはたくさんいる里山だったんですが、カブトムシはそれまで見つけたことがなかったので、びっくり、さすがガキ大将というのも変ですが、そう思いました。一人でその場所に出かけたのは、大人になってからですよ。
で、なんでそんなことを思い出したかというと、その近くに谷間があったんです。谷じゃなく谷間。ちょっと開けてる場所があって、なんか落ち着くんですよね。それがわかったのは中年になってから。
空気が美味しいとか、水が美味しいという云い方がありますが、そこは、場所が美味しかった。そのガキ大将、子供の頃からそんな味を知っていたのかと思うと、そりゃあ、差がありました。
余談の余談ですが、平家の落人部落というのが各地にあるじゃないですか。あれ一応、「平家の落人」ということになってますが、実際にはいろんな非常民の聚落があったと思うんですよね。
非常民…… 束縛を嫌ったとか、農民たちと肌が合わなかったととか云われますけど、そんなネガティヴな理由だけじゃなく、これが好きというのもあったんじゃないでしょうか。自由を愛したというよりもおいしい時間、おいしい場所をあきらめることが出来なかったのかも。
この句と関係のない話?
それはどうでしょうか。何か普遍的なものがあるからこそ、こちらも反応したわけで、反応は人それぞれですが、こんな風にいろいろ書いてしまうというのは、この句のチカラだと。そう強弁しておきます!
出典 俳誌のサロン 歳時記 草 苺
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