[暮らしっ句]彼 岸[鑑賞]
「お迎え」編
男ひとりを癒し切つたり 彼岸くる 篠田純子
我に一点の曇りなし。あなたの世話は完璧にやった。そのわたしの元に、あなたはどんな顔をして帰ってくるのか。苦労をかけたと詫びてくれるのか。ねぎらってくれるのか。ふざけるな。わたしの求めているのはそんなことではないぞ。何も云わなくて良い。何もしなくて良い。普段通りに過ごしくれ……。
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家中の敷居を拭いて 彼岸前 高木久美子
二度とこの家の敷居をまたぐな! なんて言葉がありますが、ご先祖様が帰ってこられるというのは、敷居を通られるということで、とりわけ念入りに浄めておかなくてはいけないということなのでしょうか。
玄関から仏間までのルートだけじゃなく、「家中の」ですからね。気持ちが表れています。
ん、迎えるのはご主人か。ご主人が苦労して建てられた家なら、大切に住んでいるということを示したくなりますね。こんな短い言葉の中に、お二人の人生が集約されている。
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小豆煮る 母のいち日 彼岸来る 鈴木實
春のお彼岸といえば、ぼた餅。その餡をこしらえておられるのでしょう。それが、もう何十年と繰り返されてきた作者の実家の光景。死者を迎える日に生者に注目する。そうすることで、そこにいた人を浮かび上がらせるという。
忙しく働く「母」を横目に、「父」は新聞でも読んでいたのか。のんびり外を散歩していたのか。それとも「父」もまた忙しく仕事をしていたのか。いや、そんな「父」も自分が小さい頃は、遊び相手になってくれていた……。
「父さん、今年も母さんは、ぼた餅をつくってくれるそうだよ。今、小豆を煮てる……」
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卵黄に 血のまじりをる 彼岸かな 栗栖恵通子
一族が集う家であれば、食事の用意もせねばなりません。卵は定番材料。二個三個ではなく十数個も割ることになるのでしょう。となると、そんな卵があっても不思議はありません。しかし、それが彼岸となると……。
しかし、おそらくオカルト的なことを考えたのではないと思います。作者は、少しハッとしたけれども、考えないようにした。でも、無かったことにはしたくなかった。そのゼロとイチの中間の心理が、おそらく故人への思いを暗示している。
誰だって、割り切ってるわけですよ。いつまでも故人中心に生きるわけには行かない。でも、多くの人は一時的に故人に感情移入して、それで事足りていると思い込んでいる。
ところがこの作者は、そこに少し支えている。故人中心に生きるつもりはないけれども、盆や彼岸、命日などに機械的に故人を偲ぶことには若干の抵抗がある。
卵に血があったのは事実でしょうが、そこから連想されたのはそんな彼岸への疑問と自分自身のドライな割り切り。写生しているようで、実は赤裸々な心情の開示。
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ゆで卵 いたはり剥きし 彼岸かな 丸山佳子
舞台裏を話すと、上の句に目が留まったのは、この句があったからです。この句が「卵」に注意しろと云ってくれたので、腰を据えて上の句に向き合うことが出来ました。
してみると、一見平易な「ゆで卵 いたはり剥きし」にも深意があるのでしょうか。お彼岸の来客用なので痛めないように剥いたというような単純なことではないのでしょうか。
命について敏感になっていたので卵を丁寧に扱った、ということではないと思います。そんな深刻な調子ではありませんから。むしろ、彼氏のお弁当でも作っているかのような軽さです。
ん、「お弁当」は、神さまのヒントかも。もしかしたら、こういうことではないでしょうか……。
結婚されている男性なら、お弁当を思い出してみてください。ゆで卵、キレイに剥かれてましたか? ところどころえぐれてませんでしたか?
自分で剥けばわかりますが、カンペキに剥くにはちょっとした集中が必要です。それが「たかが」であり「されど」なのです。
カンペキなゆで卵を見て妻の愛を感じる男性は少ないと思います。多くの男性は、お弁当が雑になってから妻を意識する。でも、もう遅い~
女性が「ゆで卵 いたはり剥きし」というのは、些細な事じゃないんです。「本当はコワイゆで卵!」です。今の言葉で言うと「地雷」。ちゃんと気づいて感謝していれば何でもない。でも、気づかなければ……。
結婚生活には、そういうことがたくさんあるんでしょうね。彼岸の句で、妻のトリセツを見るとは思いませんでした~
しかし、彼岸にこんな句をぶつけていくるというのはどういうことなんでしょう。迎えるのは、ご主人なんでしょうか。それにしては、あっけらかんとしてるようですけど……。
あるいは、義理の両親に対して、ちゃんと嫁をやっているという、夫へのアピール? 考え過ぎか……。
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父母の墓 乾いてをりし 彼岸かな 森田蝌蚪
表面が劣化していない墓石なら、乾くまでさほどの時間はかかりません。晴れた日が二日も続けば、込み入った場所だってすっかり乾いているはず。ですので、この乾きは何かの比喩。
たとえば、前回の墓参りが正月だとか、あるいは秋の彼岸だったということであれば、その間、放置していたわけで、良心の呵責があってもおかしくはありません。
しかし、たぶんそうではありませんね。調子が軽いし明るいですから。
となると、この「乾」はおそらくポジティヴな意味。
作者の気持ちが平静に戻りつつある。亡くなった父母も、あの世に慣れてきたことだろうと思えてくる。いうなれば、涙が乾くの「乾」。
思えば、冬=寒湿、春=温「乾」という対比もあるわけで、ああ、だから「乾」が選ばれたのか。なるほど。
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独り居に馴れて 彼岸の墓洗ふ 吉村初代
背流す やうに墓石を 春彼岸 森理和
こういう句を拝見すると、「独り居」にもやることがあると。気づかされます。墓石なんかマメに洗っても仕方が無いと思うのは勝手ですが、動かずに孤独に苛まれるなら、そっちのほうが詰んでる。出かけていって、半時間足らずでも墓の掃除をすれば、それだけで少し気が晴れるというもの。ともかく外で何かやっていれば、誰かと顔なじみになれるかもしれませんしね。
というか、やることがあるというのがありがたい。「やることがある」と思うのは、自分次第。 よく聴いておけよ > ジブン
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花替えて 春の彼岸の空仰ぐ 久保田一豊
黄砂にけぶった空? 絶対に違います。神も仏もあるというのは、こういう時に澄んだ青空に恵まれることかもしれません。
もし、どんよりした空なら、どうしてくれる?
また、おいでよ、ということですよ。それもありがたい!
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出典 俳誌のサロン 歳時記 彼岸
彼岸
ttp://www.haisi.com/saijiki/higan1.htm