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[論]アーティストの処方箋 患者は世界
現代のアーティストは、今日の世界についてどのような受け止め方をして、何を表現しているのか?
もっといえば、すでに世界戦争がはじまっているという見方がありますが、アーティストはそれについてアクションを起こしているのか?
その一端が覗いた気がしたので、わたしなりの理解ですが、ご紹介したいと思います。きっかけ及び参考資料は、アート研究者のNagara さんの「ドクメンタ15」の記事です。同記事へのリンクは、末尾に。
「ドクメンタ15」とは、五年に一度ドイツにて開催される国際的なアートイベントです。詳細については、Nagara さんの記事をご参照下さい。
結論から言いますと、注目すべき活動が成されていると思いました。
実は、内心あまり期待していなかったのですが、こういってはなんですがわたしなど到底、思いつかないメッセージが発信されていました。
「ドクメンタ15」の全貌を語るなど到底出来ませんので、二点だけ紹介させていただきます。
一点目は活動体について。
活動体、へんな言葉ですが、個人の活動か組織的な活動かということです。
「ドクメンタ15」の総合ディレクションは、今回初めて「集団」が担当しました。しかも、その「集団」は「グループ」ではなく「コレクティブ」。
どう違うかというと、「グループ」のメンバーは固定的です。結果的に、数年で入れ替わることになっても、運命共同体としてスタートする。一方、「コレクティブ」というのは、たとえていえば『七人の侍』。盗賊撃退というプロジェクトのための臨時集団。その顔ぶれでずっとやっていくことが主ではなく、そのプロジェクトに賛同した者たちが、その期間だけ一緒に活動する。
こういうと、ユルそう、と思われるかも知れませんが、短期集中型といったほうが良いかも知れません。
今をときめくプラットフォーマーの社員たちも、実際の在籍期間は相当短いのではないかと思います。職種にもよるでしょうが、天才的なスペシャリストたちは、自分がやりたい開発が終われば、そこにいる意味がない。次にやることは自分で決めたいわけです。つまり、実質的には「コレクティブ」に近いものがありそう。
なぜ、このことにこだわるかというと、既存の体制は、官庁にしろ企業にしろ、「コレクティブ」ではないからです。ガチガチの強権体質の組織です。そこには、主義主張に関わらず強権体質の組織がゆえの発想や手法というものが発生する。組織に起因する問題があるということです。当然、その問題は、別の強権組織に移行しても解決されません。
そう考えた時に、世界を大きく変える者の資質の一つは、新しい活動体であるべきだと気づいたわけです。今回、「ドクメンタ15」の総合ディレクターに選ばれたのが、個人でもグループでもなく「コレクティブ」であったというのは、かなり重要。
ちなみに、アートという狭いプールでの話だろ? と思われる方もいるかもしれませんが、この「コレクティブ」をIT用語で呼べば、DAOになると思います。
ビジネスに置いても、さっと起ち上げて、仕事が終わればさっと解散する組織形態が主流になっていく可能性がある。主流にならずとも、一定割合が、そのような超フレキシブルな組織になることは間違いありません。
世界は連動している。天才の考えることは分野を超えて似てくるというべきか。
注目点の二つ目は、活動内容です。活動ありきの集まりですから、活動内容が肝心です。
紹介が遅れましたが、「ドクメンタ15」の総合ディレクターに選ばれた集団の名前は「ルアンルパ」です。
「ルアンルパ」は「ドクメンタ15」において、以下のようなメッセージを発しました。
1955年の最初のドクメンタが戦争の傷について語ったのであれば、15回目のドクメンタにおいては、現代の傷についても語らざるをえないでしょう。
特に、植民地主義、資本主義、父権的構造について。私たちはこれらをそれぞれ異なる視点の上で成り立っている相互関係のモデルとして照らし合わせたいと考えています。
このメッセージの重要さをわかっていただくために、逆に、陳腐なメッセージとはどういうものかを示したいと思います。
たとえば、「戦争反対!」。
「戦争反対!」のどこが陳腐なのか? 新鮮味がないからか?
一番の問題は、その呼びかけには、すでに強力なカウンターパンチが用意されていることです。もう、巷にあふれていますよね。
「誰だって戦争なんかしたくない。でも、今回はA国が悪いから、そういう場合には、断固、戦わなければいけない!」
「戦争反対!」と叫べば叫ぶほど、参戦派が勢いづくことになっている。彼らは正義の戦いをイメージして燃え立つ。これでは表現として最悪です。アーティストとすれば、論外ですね。
じゃあ、戦争の悲惨さを表現するというのはどうか? それもずいぶん乱用、悪用されるようになり、マスコミの報道でも、悲惨な映像、感動的な映像、勇敢な映像の組み合わせは常套手段。アーティストのやることではありません。
普通に考えれば、やれることなど皆無ではないかと、絶望的な気分になるかと思います。反対と云ってもダメ。悲惨だと云ってもダメなんですから。
ここでちょっと話が変わりますが、わたしは今の世の中、議論が成立しなくなっていることに気がついて、「世界観格差」という小説を書いてきました。議論が成立しないというのは、自分が正しいという思い込みが強すぎると云うことです。自分と異なる意見について理解しようとするどころか、相手に興味も持たない。相手の考えが違うと気づけば、自分の部下を叱るように攻撃する。そこまで攻撃的ではなくとも、たとえば、こんな言葉からはじめてしまう。
「やっぱり、A国が悪いよね」
「やっぱり、原発は必要よね」
「やっぱり、皆が○○を接種すべきよね」
相手の思想に探りを入れて、同じ意見だとわかると意気投合。違うとわかると距離を置く。付き合っていくために適度な間をとることはとても大事なことなんですが、関わりたくないとなると、それは共存ではない。
じゃあ、どうすればいいのか?
「やっぱり、A国が悪いよね」と誰かに云う前に、「A国の支持者は何を考えてるんだろう?」と考え、自分で調べることです。
もちろん、こちらサイドのマスコミの記事をいくら集めてもA国の気持ちはわかりませんし、それどころか前提になる事実認定を誤ります。A国の新聞には、まったく逆の事実が書かれていることが普通にありますから。
それを頭から信用出来ないと判断すれば、その時点で、あなたがA国の人との話し合いを拒否したことになる。A国が怪物なんじゃなく、あなたの意識がA国を怪物に仕立てたわけです。その延長線上に、A国なら核兵器だって使いかねない。放射線が検出された? やりやがったな! やっちまえ! になる。
しかし、こう説明しても
「でも、A国が侵攻してきたんでしょ?」
というところに戻ってしまう人が多い。でも、普通に考えてください。
イジメでも、ケンカでも、先に手を出したかどうか、そこだけ見ても事情が分かりますか? どうして殴りかかったのか? 当然、その理由を調べますよね? 法律にも正当防衛は権利として認められているんです。最低限、そこの検証は必要。その際、殴られた方の話だけ聞いても仕方がないんです。
と、うるさいことを云ってしまいましたが、アーティストではないので、ご容赦下さい。こういうリクツを云っても、「うざい!」それで終わります。下手すれば、「オマエは、A国の肩を持つのか!」と云われる。
「ルアンルパ」の発したメッセージをもう一度、見てみましょう。
私たちはこれらをそれぞれ異なる視点の上で成り立っている相互関係のモデルとして照らし合わせたいと考えています。
翻訳が機械訳なのか、ちょっと読みづらいですが、要するに、ふだんの自分とは違う視点で見ることを提案しているんです。
あなたが原発に反対しているのなら、「原発の推進者はどう考えているんだろう?」と調べてみる。考えてみる。
あなたが○○接種を義務化すべきだと考えているのなら、「接種に反対してる人の根拠は?」と調べてみる。考えてみる。
自分と同じ意見の情報を集めても、それは理論武装であって、戦う準備をしているわけで、仲良くすることにはつながりません。
わたしはバカなんでこんな云い方しか出来ませんが、そこへいくと、アーティストは実にスマートです。その大意は
「問題の多くは、異なる考え方の持ち主が同居していることで生じているのではないか。もしそうなら、自分の考えに固執せず、相手の立場になって考えて見ることが、未来への第一歩になる……」
さらにつづめていえば、同居している違う考えの持ち主に対して、どう思うかです。いなくなってくれればいいと思っていれば、きっかけを見つけて追い出しにかかるでしょう。その時の理由は「正義」なのか「口実」なのか?
というか、異なる考えの人たちと一緒に暮らすのに、「正義」は必要ですか? 一緒に暮らすのに大切なことは「共感」や「理解」。
大衆の一人一人が、「共感」と「理解」を見失わなければ、それだけで世界は暗黒にならずに済むかもしれません。
ちなみに、アートはリクツじゃないんで、今の話はあくまで方向性、コンセプト。作品は、以下の紹介サイトでご覧下さい。
こっちは、わたしの拙作 ↓