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[暮らしっ句]紅葉2[俳句鑑賞]

「第三状態のエロス」編

 水底の紅葉 水面の冬もみぢ  岡本眸

「本物の紅葉はすでにもうとうに散ってしまった。今あるのは『冬もみぢ』といって、別のものだよ」 

 なんて云われたら、どきっとしませんか?

「え? アレは紅葉じゃないの? 水底の紅葉のほうがホンモノ?」

 いわれてみると「水底の紅葉」のほうが妖しく息づいている感じがする。寂しい冬景色の中の「冬もみぢ」のほうが生気がない。
 その時ふと「第三の状態」が頭に過りました。「第三の状態」とは新しい科学用語で「生」でも「死」でもない状態。

 動物のような巨大な多細胞生物が死んだ時、全体としては死んでも、すべての細胞が即死するわけではなく、まだ生きている部分がある。ですから、その時間差を利用して生体間臓器移植が可能なわけですが、個々の細胞を観察すると意外なことがわかった。中には、原始的な単細胞生物のように、自立する素振りを見せ始める細胞があったたというのです。
 ただ、大きな組織の中で生きてきた細胞ですから、自分で食べものを取り込むことが出来ません。持っているエネルギーを使い切れば餓死する。培養液の中に入れてやると、もう少し生き続けられるわけですが、そうやって観察すると、原始的な単細胞として再スタートしていた。クローン(複製)じゃなく、自立独立の第一歩です!
 とはいえ、まったく気が遠くなるような話。生命誕生の歴史をなぞるとすれば、自立した単細胞生物になるにも何百万年?くらいかかりますから。
 むしろイメージしやすいのは神話のほうかもしれません。遺体からさまざまな神が誕生するというエピソードがあるじゃないですか。○○神の亡骸から誕生する神々は複製でも復活でもなく、新しい神々だったりする。そのイメージに近いと思います。

「第三の状態」

 つまり、「水底の紅葉」が妖しく息づいて感じられるのは、主観ばかりではなく、そこには自立して生きようとする細胞たちがいたと。特別な感じがするのは、そのためだったかもしれません。
 美的感覚というのは、うわべについての関心かと思われがちですが、存外、その奥にある微細な真実も嗅ぎ取っていたのではないでしょうか。
 ちょっと大げさなことを云えば、近い将来、藝術家の作品を精査することで発見がなされるかもしれませんよ。宗教の教えや藝術作品は、これからの科学者にとって、深海、宇宙に並ぶ第三のフロンティアになるかも。

 作品の鑑賞に戻ります。
「冬もみぢ」とは、遅く紅葉する「別の種類のもみぢ」の意味ではなく、落葉せずに枝で枯れ死する紅葉のことを指していたのではないか。
 つまり、地上に残る「冬もみぢ」の方が死のメタファーであり「水底の紅葉」のほうが生者のメタファーだという… 陰陽の反転が表現されている。理屈ではなく、美しい景色として。
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 蜘蛛の巣に 紅葉吊りさげ撮る 乙女  阿部ひろし

 上の句を鑑賞した後では、俄然、妖しさが読み取れます。
「蜘蛛の巣に」「吊り下げ」られた「紅葉」は曝された死。いわば「磔」。
 もちろん「乙女」にそんな意識はありません。キレイなものを無邪気にディスプレーする感覚なのでしょう。しかし、生け花とは違います。生け花の極意は野に咲くが如く生ける、ですから。乙女の行為は、いわばコレクターの標本。「生命」ではなく「形骸」への偏愛。
 言葉を選ばねばなりませんが、「乙女」は自分自身が容姿を偏愛されがちな存在です。「形骸」を偏愛される気持ちを知らないわけではない。その「乙女」が「紅葉」をそんなふうに扱っている。そこにエロスがある。
 エロスを語るには、当方、あまりに粗野なので、乏しい教養の中から一つ例を挙げておきます。
 伝奇物語の『サロメ』。絶世の美少女サロメは、洗礼者ヨハネに執着しますが、ヨハネは振り向いてくれない。そこで彼女は父であるヘロデ王に頼み、こともあろうにヨハネの首をねだった。殺してくれと頼んだのではありませんよ。頭部を欲した。
 若い女性にはそんな倒錯があるのではないか。美に対する執着が生命の尊さを見失わせる。「あなたは美しいんだから、もっと愉しませて!」です。生命をモノとして扱うことの残酷に自覚がない。
 作品は、そんなことはおくびにも出さずに、さらりと描写していますが、たぶん確信犯。エロスを見逃さなかった。


出典 俳誌のサロン 
歳時記 紅葉
ttp://www.haisi.com/saijiki/momiji1.htm




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