放棄した人と差し伸べる手について考えた話。

見に来てくれてありがとう。

今回は、自分で出した結論として残念というか、ちょっと悲しくなった話。

つい最近、会話についての記事を書いた時に妹の話を書いたんですけど、妹がもうすぐ産休に入るんですよね。そんな中で仕事場の人間関係についての話があって。簡単に言えば上司が嫌いすぎて仕事にならない同僚をなだめたっていう話で。で、その回数なんと3回。ここ1ヶ月の話。妹は産休に入ってしまって自分が緩衝材として間に入れなくなってしまうことで、その後の仕事場の空気とかいろんなことを気にしてたんですよね。自分で言うのもなんですけど、本当できた妹で。なんだろうな、人間的にすごい大人なんですよ。自分なんかよりよっぽど出来の良い妹でして。同僚をなだめた3回目にこんなことを言ったっていう。

「嫌いなのはしょうがない、だけどそれで仕事に支障が出るのは違うよね。こうやって言ってくれる人がいなくなったらもうどうにもならないよ?自分が産休でいなくなった後もこのままだと辛いだけだよ?」

言葉としては正確ではないけれど、聴いた話の内容としてはこんな感じで。すごいなー・・・って思った。ここまで言ってあげられる妹が。そして、ここまで言わせているその同僚さんが。結果としてというか、丁度数日前に妹が完全に産休に入ったんですけど、別の同僚にLINEで話を聞いたところ、やっぱり態度というか行動は変わらなかった、と。

はっきり言ってしまえばなんですけど、自分は妹の身内なのでね、妊娠してる状態の妹にストレスかけてくるような相手はある意味では敵なんですよ。敵っていう表現は的確ではないけど、まぁいい気分はしないじゃないですか。で、そんな中でも気を遣うっていうか気にかけて言葉をかけていた妹の言葉は届いてなかったっていうことなんですよね。変わらなかったっていう。先に書いた妹の言葉って、ともすれば嫌われたりこんなこと言われたくないって思われたって全然おかしくない言葉じゃないですか。それを覚悟して伝えてる言葉なんですよ。これで嫌われちゃったらしょうがないって。でも、届かなかった。自分が妹に伝えた言葉は、よくやったと今は自分とお腹の子を優先してゆっくり休みなさい、と。自分たちのことを最優先にしてあげて欲しいと。これが最善かどうかなんて自分にはわからないけど、それが本音だったもので。そう、元気に出産して幸せになってほしい。

話を戻しまして、こちらの目線では言葉が届かなかったっていう表現なんですけど、向こう側の同僚さんの視点からすると、妹の言葉を受け取らずに放棄したっていうことなんですよね、自分が言葉で表現するなら。こういう選択を取る人に妹のように手を差し伸べる人ってどう頑張っても自分が辛くなっちゃうんですよ。結果として、どっちにも良い方向に話が転ばないっていうことで。届かなかったことがね、自分では何もできなったみたいな、自分が・・・ってなっちゃう。本当は違うんですよ。その差し伸べた手と言葉は優しくてあったかくて、自分は誠実で素敵なことだと思う。それを実行できる妹を誇らしく思う。だけど、結局相手も自分も苦しいとか辛いっていうままになっちゃって。これって悲しいことじゃないですか。

ちょっと横道。こういう例の挙げ方自分は好ましくないんだけど、きっとわかりやすいから使います。よく、ホームレスさんとか、公園や道で生活してる方に声をかけて施設というか、ここで生活しませんかみたいなボランティア的な活動ってあるじゃないですか。自分が目にするのはそういった活動を取り上げたテレビ番組とかで、構成とか実際のところや裏の事情なんて分からないのだけど、活動としては優しい行動じゃないですか。でも、大体の人は反発というか怒鳴ったり、余計なことするな、構うなみたいな反応で。番組内だったら、最終的には折れて和解するんですよ。折れてって書いちゃったけど、受け入れてるようには見えないんですよね。だから、現実的というか、実際のところは反発されて終わっちゃうっていうことが多いんじゃないかなって自分は推測してて。この一連の流れって生きることを放棄した人たちに手を差し伸べてるってことじゃないですか。これ、自分は素敵なことだって思ってたんですよ。ボランティアとか慈善行動って良いことじゃないですか。そう認識してる人が大半だと思う。だけど、今回の妹の件で本当にそうなの?って感じてしまって。

こと、何度もこういったことを書いてるんですけど自分が生まれて育ってきた日本の教育ってみんな手を取り合って仲良くしようねっていうのが基本の前提の考え方にあるんですよ。自分はそれを悪いことだと思ってないし、そりゃあできるならみんな仲良く心穏やかに過ごせたらっていう理想は今も持っていて。だけど、現実ってそうはならないじゃないですか。不平等だし、社会人になればいきなり何も知らない世界に放り投げられて自分守りながら他者や世界に不満を投げながらなんとか生きてかなきゃいけなくなる。極端だし、全ての人がそうじゃないことももちろんわかってるけど、そういう理不尽さにやられちゃってる人がいっっっっぱいいるっていうのもまた事実じゃないですか。そんな中で優しい人が、そう自分の状態がどうであれ相手や誰かに手を差し伸べられる素敵な人が一定数いて。自分は少なからずそんな人たちにはもれなく幸せであってほしいのだけど、そういった人たちの方が生きづらいんですよ。この世の中。誰だって差し伸べた手が振り払われてしまったら悲しいし、傷つくんですよ。

優先順位ってあると思っていて。昔はその順番を他者や相手を最優先できる人が理想だったし、今もそれは素敵だと思っていて。理想論ではあるのだけど。でも、自分がある意味でぶっ壊れてとにかく回復して状態をどうにかこうにか形成しなきゃってなった時に、最優先にするべきなのは絶対に自分だってなったんですよ。これって我が儘だとか自分勝手って捉えられちゃうじゃないですか。言葉だけで表現すると。でも、実際はそうじゃない。意味なんていくらでも考察の余地があって。自分を優先して自分が良い状態で、そこで初めて無理とか自分を崩さないで相手や誰かに優しくできるんですよ。自分は今はそう思っていて。自分が良い状態じゃないまま何かをしようとすると絶対に自分に綻びができちゃうんですよ。大きさに関わらず。それは絶対に、そう絶対にいつかほどけてバラバラになって壊れてしまう。自分はそんなの嫌だ。自分も、そして他の誰だって幸せであってほしい。だから、自分が心穏やかに過ごしたいって心の底から思っているし、それが誰かに届いてその人にもそうあってほしいと思う。それは本当に、誰であっても。自分の知らない誰かでも。

不機嫌とか、相手に攻撃的になってしまう1番の理由って自分が満たされてないからだと思っていて。自分が辛いとか苦しいから相手や接してくれる人にもそうなってしまう。これって、先に書いた妹の同僚もホームレスの人たちも同じことなんですよ。個人の心の問題で。一緒くたにするなって言われるかもしれないけど、でも同じ1人の人間じゃないですか。自分の機嫌が悪いのも放棄しているっていう行為も。

そこでなんですよ、そんな放棄した人に差し伸べる手は届くのかっていうことで。届くことも、ある。そう、あるんですよ。でも、それって美談にされちゃうの。されてしまうんですよ。物語の世界でだったり、テレビ番組だったり、見せられているものがこーーーーーんなに良いものやことなんですよって。これ、自分はものすっごい嫌。心の底から嫌。なんでそこにそんな特別感というか美徳感出されなきゃいけないんだろうって。これがもっと自然な方がいいってわかってるのにみんなそれを望んでるのにそうはなってないことに。疑問を持たないことに。放棄した人がいっぱいいて。優しさを素直に受け取れない人がいっぱいいて。そうなってしまうことには原因があって。それって最初にみんな手を取り合って仲良くねっていうところにこだわった人が弾かれてそうなってるじゃんって。なんでこんなことになっちゃうんだろうって。最初から自分を満たすことを最優先にしていればもっと優しくすることも優しくしてもらうことにも素直でいられるのに。どうしてこんなことになっちゃうんだろうって。

あー・・・語弊がないように書いておきたいんですけど、自分を満たす、自分を最優先っていう時に好き勝手して誰彼構わず傷つけたりやりたい放題していいっていうわけじゃないんですよ。もちろん。これが難しいところで。ただ、それをしなくたってまず自分をある程度良好な状態に出来るように自分優先でっていうことは可能だと思うんですよ。それをしないで不満や不安や体調不良や辛い苦しいをもったままで日々過ごしてしまうから現状そんな人たちがめっちゃくちゃいっぱいいるわけで。

最初に書いた自分の悲しくなった結論ていうのが、届かない人には手を伸ばしてはいけない。これだったんですよ。手を伸ばすことは素敵なことで。自分は素直に好きだし、自分もやっていきたいことで。だけどね、届かない人に手を差し伸べ続けると共倒れしちゃうんだよ。素敵な人が、素敵な人でなくなっちゃうの。そんな優しい人が放棄する人に染まっていっちゃうんだよ。届かなかった、辛い、自分なんて、ってなってしまう。そうやって自分を放棄してしまったらそこに新しい手を差し伸べてくれる人が現れてもそれを放棄しちゃうんだよ。素直に受け取れないの。これ、連鎖するんですよ。終わらない、連なってしまう。だったら、どこかでその伸ばした手をひっこめなきゃいけないって。これ、出来る人はごくわずかだと思う。出来ない人ほど、誰かなんて選ばずに目の前にいる辛い人に手を差し伸べてしまうの。これが本当に辛い。外の世界から見ている自分には。

考え方と切り替えられるかっていうことになってしまうんですけどね、手を差し伸べることをやめる必要はないんですよ。自分は、やめて欲しくない。そんな優しい気持ちを、あったかい気持ちをなくさないで欲しい。そんな人が好きだから。だから、ひっこめることに罪悪感を覚えてしまうような人ほどひっこめる選択を取ってほしいって。そうしたら今度はその手が届くかもしれない別の人に手を差し伸べて欲しいって。めっっっっっちゃ大変だよ。大変で面倒で。なんでそんなことしなくちゃなんないの。優しい人が、素敵な人がって思う。だけど、これも自衛なんだと思う。自分は必要なことだと思うからこうやって書く。

放棄した人さえも救って、みんながみんな幸せに。互いに優しくしあえる世界。それが理想で、自分は本当はそうあってほしいし、そういう方向に近づけるように世界が進んでいって欲しい。心の底から、本音で。でもさ、現実って非常なの。そんなことは許さないの。圧倒的暴力的な攻撃力で放棄する人を量産するの。悲しい。だから、自分は手を差し伸べる人が減らないように、今いる素敵な、優しいそんなあなたがそのままでいて欲しいから、手を差し伸べる人を選ぶことを躊躇わないで欲しい。選んでしまうことに罪悪感なんて覚えなくていいんだって思ってほしい。

放棄してしまった人へ。もしこれを読んでくれた人が、辛くてしんどくて誰かの優しさを受け入れられなくて、自分がそんな放棄した人だって思っている、感じている人がいたら。自分はこうして欲しいと思う。とにかくゆっくり休んで、眠って、美味しいご飯を、栄養あるものを食べて、自分を回復させて欲しいと。ただただ自分で自分を回復させて欲しいと。そしてね、何かをしたいって、生きたいって思えるようになったら、それは放棄した筈の自分を取り戻したいって思えるようになったってことだと思うから。放棄した人が減るっていうことだから。自分は、そんな人がほんのすこしでも、減ってくれたら嬉しい。自分で自分に優しくできる人が増えて欲しい。それが誰かに優しくできる人が増えることに繋がっていくと思うから。

長くなりました。何言ってんだこいつはっていう位の感覚で読んでもらえたら幸いです。自分は本気で、本音で「今」思ったことを書きました。全ては救えないし、救いたいと考えることもまた良いことばっかりじゃないと。これを切り捨てているって否定する人もいるでしょう。自分もそういう思いもなくはないです。だけどさ、やっぱり誰かを思いやれる、優しい人には優先的に幸せであってほしいよ。それが人情だと自分は思う。だからこそ、そんな人が増えて欲しい。それが繋がっていく世界であってほしい。心から。今日も、そしてこの先も自分も含めほんの少しでも心穏やかに過ごしていける人が増えますように。

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