ガブリエル・夏 28 「魂ナビゲーター」
2人の魂ナビゲーターに従うと、移動中のヤギの団体に囲まれてメーと言われたり、ニョキっと伸びて咲く孤高の黄色い花に見惚れたり、柵の端まで寄ってきてくれた馬に話しかけたり、雑多に伸びた草の種類と共生の状況を観察したりすることができたけれど、スキー場行きのバス停はなかなか見つからなかった。ウロウロしてる間に、駅からもだいぶ離れてしまった。
「ガブくん、1回駅まで戻ってバス情報を収集しようか。」
「うん、いいよ。あ、待って。ダメ! バス! 来た! あそこ。 走って! 乗せて〜。」
レイがまみもの手を取って走り出す。もう一本の腕はバスに向けて、グルングルン振り回している。右下の方を通る道路に、朝、レイの携帯で見た写真のマイクロバスとそっくりのが、坂を登る方向に進んでいくのが、まみもにも見えた。2人のいるところからは、草の斜面を下りきったところで、バスの道に出る。
「気をつけて。でこぼこがあるから。」
「はい。わかった。」
まみもは実際によく気をつけて、斜面を下った。怪我をしたら、使えない引率者になる。スキーができない。それにまずこけたら、あのバスに乗れない。全部台無しだ。それはいかん。急ぐけど慎重に、慎重に。前を行くレイは、びょこんびょこんとても軽そうで、ウサギかシカのよう。さっきレイはブタだったかもしれないけど、ブタも、その気になったらこんなに速く走れるのかな。レイは、時折り後ろを振り返りながらでも、バランスを崩さない。身体が別のものでできてるのじゃないかと思う。または年齢か。レイのより30年多く使われてきたのだから、まみもの身体がレイののようにスムーズに動かなくても、当たり前か。経年劣化か。 それにしても、レイの方は清々しい。巨人族の壁のような、大きなライムストーンの塊でできた山を前に、こっち側の山を、谷へ向かって鳥が飛ぶようにスムーズに降りて行く。「待ってー」、「乗せてくれー」と、必死で腕を振ってる。そうだった、集中して行かないと。まみもは骨盤をもう少し前傾させる。自然に脚の回転が早くなる。
バスがガードレールのカーブに差し掛かる。こっちは草地を通り抜けるまで、もう少しある。
「まみもちゃん、大丈夫?」
レイが走りながら聞いてくる。優しい、いい子だ。
「うん。はぁ、はぁ、チョロいかな、はぁ、はぁ。」
「本当? じゃあ……。」
レイが3から5にギアチェンジしたみたいに、スピードを上げる。速い。こんな速度で脚を動かすのは、何年ぶりだろう。いつもと違う心拍数領域に入ったためか、まみもの頭蓋骨の中全体で、色んな音楽が、同時に、大音量で再生される。その中で、ベートーベン、The Shocking Blue、Queen、高校生の時に手伝ったバンドの曲などが目立って聴こえていて、次第に小さくなっていく。ブルーハーツがいくつも同時に歌ってる。あっちからもこっちからも、近づいてくる。Train-Train, 少年の詩、リンダリンダ、ラブレター、人にやさしく、夢、夕暮れ、Too Much Pain、キューティパイ、情熱の薔薇、歩く花、……歩く花。
知ってるかい 忘れては いけないことが
何億年も昔 星になった
どんな時代の どんな場所でも
おんなじように 見えるように
覚えたり 教えられたり
勉強したり するんじゃなくて
ある日突然 ピンときて
だんだんわかる ことがある
ガードレールを飛び越えて
センターラインを渡る風
その時その瞬間 僕は一人で決めたんだ
僕は一人で決めたんだ
今日からは 歩く花
根っこが消えて 足が生えて
野に咲かず 山に咲かず
愛する人の庭に咲く
普通の星の下に生まれ 普通の星の下を歩き
普通の町で 君と出会って 特別な恋をする
ガードレールを飛び越えて
センターラインを渡る風
その時その瞬間 僕は一人で決めたんだ
僕は一人で決めたんだ
今日からは 歩く花
根っこが消えて 足が生えて
野に咲かず 山に咲かず
愛する人の庭に咲く
愛する人の庭に咲く
愛する人の庭に咲く
(歩く花/ブルーハーツ)
頭の中の音楽がボリュームマックスでプレイされているので、目に見えているものはミュートで展開する。
レイとまみもは、ついに草地を駆け抜け終えて道路に入った。バスはそこをとっくに通り過ぎている。右カーブのインコースを利用してバスに近づく。カーブが終わったあたりで、バスと、走っているレイまみもの距離は70メートルぐらい。バスの運転手は、最初は停まる気はなかったかもしれない。だいたい西洋で、黒い頭に目の細い東洋人、というか極東人は、得体の知れない不気味な存在か、マナーというもののわかっていない蔑むべき存在だ。いや、みんながそう捉えているというわけじゃない。そういう風に見る人もいるというだけ。全体の中での割合はわからない。それにレイは、髪は黒っぽいけど、Caucasianの方に近い顔立ちと、体型をしている。問題はまみもの方だ。いかにも東洋人の細い目をしていて、若くもない、綺麗でもない。極東人であるというマイナススタートなら、今のところそれをカバーしてアピールできる、何も持ってない。何かあるとすれば、男の子のお母さんが、息子のために、年の割にがんばって走っているという点で、同情ポイントを恵んでもらえるかもしれないというくらいか。そもそも、運転手がルールにきちんとしたい人だった場合、バス停でないところで、バスを停めてくれたりしないものだ。しかしレイが頑張るのと、バスがカーブ続きで速度を落としているのとで、バスとの距離は縮まってきた。ひょっとしたらさっきまでは見えていなかった2人の外見の特徴が、今は運転手に、ミラー越しでよく見えているかもしれない。バスの最後列の、若いカップルらしき乗客が、身体を捻ってこちらを見ている。「カモーン ユーガイズ キャンメイクイット」と言って、そういう仕草をしたように見えた。ゼーゼー、ハーハー。少しハイになってきたかも。ゼーゼー、ゼーゼー。こめかみのところで大きく速い鼓動を感じる。心臓、大丈夫かなと、多少不安になる。バスが、指示器を点滅させ、右に寄って、停まった。ドアが開く音がした。待っている。レイが喜んだ顔をする。何か言ったかもしれないけど、聞こえない。ドアまで、さらにスピードを上げて近づいていく。すぐにバスに乗り込んで、レイが運転手に何か言っている。運転手は、ドイツの次期首相候補のオラフ・ショルツの系統の、ぱっと見ではちょっと怖そうな顔の白人で、何かレイに言う。もう一度レイが何か言う。レイが後ろの席へと歩いて行こうとする。まだまみもと手がつながっていたので、まみもは引っ張られる。運転手と目が合ったので、できるだけいいスマイルをして、「ダンケシェン」と言ってみる。効果は知らない。運転手は礼儀からか、上品に微笑んだ。最後部の座席の2人が、こちらに向かって親指を上げて、「ナイスラン!」とか「ウェルダン」とか言ってくれているようだ。レイが何か答えている。まみもは、「サンキュウ」と口パクした。
ショルツ似の運転手は、新しい乗客が空いてる席に座るのを確認してから、バスを発車させた。
レイとまみもは、顔を見合わせて、うまく乗り込めた喜びを分かち合った。レイの頬はピンク色で、まみもはまだ呼吸が荒い。持ち主に返す前に、つながっていたレイの手にキスをした。頭の中の音楽は、段々静かになって、でもまだ小さく聴こえていた。
愛するひ〜との にわに〜咲く〜