巴里の憂鬱

題:ボードレール著 三好達治訳「巴里の憂鬱」を読んで

この「巴里の憂鬱」は「悪の華」に大いに関係がある。でも、「悪の華」は読んだことがあるけれども、忘れてしまっている。「悪の華」が、宗教や人間への悪魔的な誘惑や誹謗や卑猥さをあからさまに表現していたとしても、散文詩詩のみを楽しもうとする者にはそれほど重要なことではない。そのため、この「巴里の憂鬱」のみを読んだ感想を記したい。ただ、訳者の三好達治の「あとがき」によると、「悪の華」と「巴里の憂鬱」の両方に関連もしくは重複する部分は三十ケ所にも及んでいるとのこと。また、本の作成された年代は知っておきたい。「悪の華」の初版は1857年、そのうち何篇かは風紀紊乱の咎で削除を命じられている。一方、「巴里の憂鬱」は1855年に最初の何篇かが発表されて、その後10余年にわたり死の直前まで発表は続いたらしい。生きているうちに「巴里の憂鬱」としてまとまることはなかったのである。「悪の華」なる詩集と「巴里の憂鬱」なる散文詩は、ある時期並列して記述されて、ある種の補完関係を持っているに違いない。

何と言っても、ボードレールなる詩人の値打ちは近代詩に与えた影響であろう。ランボーやヴェルレーヌやマラルメを始めとして、日本においても多くの詩人が影響を受けている。萩原朔太郎にも影響を与えている。「巴里の憂鬱」では、巴里の風景を描写しながら、過半の作品が主体の感情や倫理観が確たる位置を占めて、小話のような散文詩にも作者の機知や憂鬱に情熱や退廃さが綴られていて、作者は本書の内に揺るぎなく存在して言葉を発して思うままに自らを表現しているのである。思い出すのが「紫式部日記」の出だしの文章である。風景描写の中に自らの心情を忍び込ませた文章とは明らかに異なって、「巴里の憂鬱」では感性を持つ主体が風景から明確に独立して孤立存在している。まあ「紫式部日記」と比較するのは、文学が異なり過ぎてあまり良いとは思われないが・・。もっとも、紫式部は消息文ではあからさまに清少納言や和泉式部を批判し、かつ自らの境遇を悲嘆している、これは「巴里の憂鬱」以上に、紫式部の自己表現の冴えたるものであろう。そういう意味で「巴里の憂鬱」は批判や悲嘆ではなくて、あくまでも客観性を保ったボードレールの憂鬱と美意識と倫理観を表現しているのである。

「巴里の憂鬱」は長年書き続けていたためか、前半と後半では、訳文であるため定かではないが、文章の質が明らかに異なっている。前半では修飾語が多くて文章を色取ってさまざまの風景や心情が混濁していて文章に勢いがある。後半では修飾語を削り落ち着いて小話となって読みやすくなっている。なお、この「巴里の憂鬱」には、詩人としてのボードレールの散文詩への情熱や期待も込めて書かれている。序文としての「アルセーヌ・ウーセイに与う」では『音楽であって拍節も押韻もなく、しかも魂の抒情的抑揚のため、幻想の起伏のため、意識の飛躍のために、適用するに足るべく十分に柔軟にして且つはまた十分に錯雑せる、詩的散文なるものの奇跡を、そもそも我々のうちの何人が、その野心に満ちた日において夢想しなかっただろうか?』と記している。「異人さん」なる小品では、何が好きだと言って祖国や親類兄弟でも美人でも金でもない、雲が好きだと書いている。この素敵滅法界の雲とは言い得て妙である。雲とは散文詩の事であろう、というより詩好きな束縛を受けない発想の自由な魂である。朔太郎が「猫町」などで引用したのも詩の好きな者として当然なことだろう。

関心を引いた作品を何点か紹介したい。「二重の部屋」では幻想と快楽の王座に夢の女王があらわれ安らいでいる。やがて幽霊が入ってくる。諸々の夢の女王は消え去って、惨憺たる記憶が甦ってくる。この陋屋、倦怠の住居、家具、痰によごれた暖炉など廃屋の悪臭を放つ諸々は、私のものであって、時間とともに恐怖や悪夢に憤怒などの呪詛の行列が還ってくるのである。これは二重性を持つ部屋ではない、時間が支配していて生きることを強制する懊悩な部屋なのである。この懊悩し説明し難い恐怖を呼び起こす部屋こそがボードレールの特徴を言い表している。「群衆」では詩について述べている。『眼に触れる偶然の者に、行きずりの未知の者に、詩の憐憫と、魂が残りなく自らの与うるところの、この神聖な淫売、この言語に絶した饗宴に較べるならば、人が恋愛と名づけるものは、実に遥かに小さく、遥かに狭く、遥かにまた弱々しい』と言っている。恋愛とは比較にならない詩への情熱があるけれど、この情熱は自らの生きることとの戦いでもある。戦うべき相手とは誰か、時間がもたらす出来事、この出来事に含まれる邪険さと罪への誘惑があり、現在や未来に犯した罪への償いでもある。魂がこれらを思うままに飲み込んで、自らを思うままに汲み尽くせて他者に供与できることこそが、神聖な詩の精神的な饗宴となるのであろう。

「紐」では少年が縊死したその紐を手に入れたい母を描いている。「情婦の画像」では少年たちが娘について語っている。「源氏物語」の「雨夜の品定め」を思い起こさせるが、簡単な娘の容貌などの評価ではない。恋愛がもたらす恐怖であり、自らを完全無欠さから解放させる娘の死などの話ある。生命の時を塞いでこうした話を続けるためには更に酔いが必要であり新しい酒を運ばせる。「貧民を撲殺しよう」では老人を殴り殺すと、老人の屍が立ち上がって私を微塵に殴りつけてくる。この老人の誇りと生命を回復させ、私の哲学的学理に従うと誓約させる。この哲学原理とは、他人と同等であることが証明できるものが他人と同等であり、自由を征服する者が自由に値することである。最後の「エピローグ」がボードレールの詩情を表している。その一部を引用すると『この心満てり、我れ今山上に立つ。ここよりして能く都の全景を眺め讃うべし。病院、娼家、煉獄、地獄、徒刑場。・・我れは汝を愛す、原罪の首府!・・』

こうして読んでみるとボードレールは悪を愛しながら、むしろ正常な感覚の持ち主である。他者との関係性は残忍さではなくて通常である。悪魔とは比喩である。錯乱などない。彼は幻覚ではなくて現実を見ている。悪とは彼の生きた時代への嫌悪なのだろう。悪とは彼に内在する正統な倫理観である。彼がどのような人生をたどったか知らない。でも、エクリチュールで見る限り、まっとうに熱烈に詩を愛する者である。「巴里の憂鬱」における散文詩は確かに近代の詩の礎ともなる形式を持っているに違いない。それは主体が綴る主体の位置の確かさと心情の確かさにある。ただ、言語は解体されずに修飾されている。過度な修飾は次第に発散しながら、作品を綴るに従って収束してきて普通の散文に近くなる。最後に一つだけ、本書には老婦人が結構出てくる。この老婦人と老人が大きな役割を担って、美しい女と混在していることが、群衆よりもこの「巴里の憂鬱」を魅力的なものにしている。

以上

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歩く魚
詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。