首を吊った太陽に蛇や女_-_コピー

散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その11

   空っぽの女なる母

 太陽は空っぽの空洞となって女の胎内に住んでいる。空っぽの胎内そのものが太陽であってもいいし、女の胎内に光を放たない太陽が溶け込んでいるのかもしれない。いずれであろうとこれと言った決まりなどなくて、逆に空洞なる太陽が女を包み飲み込んでいるのかもしれない。確実にこの空洞は煌めく星座や渦巻くガスの星雲を含めてこの宙そのものを呑み込んでいる。生み出すためでも消滅させるためでもない、きっとこの胎内には、空間の量に換算するなら子供一人を生む貴重な胎盤の隙間に、途方もなく巨大なこの宙の全体を押し込んでいるのである。
 何が、どうしようって、どこに何があるのかよく分からないが、今さら見ようとして何が見え、何に触れることができるのだろう。考えても良く分からないものは良く分かるはずはない。物質や星座やガス星雲、それに太陽が女とともにどのような位置関係にあるのか、抱合的な空間上のどの位置に在るのか居るのか、死んでいるのか生きているのか、染色されずに透明なのか、黒く塗り潰されているのか、ちっぽけなのか巨大なのか、時間は刻まれていても、きっと音だけは無いのである。これらのものは見えずに、触れることができない。ただ生きた女そのものが胎内を持ち存在しているなら、醜い女や少女ではなくて艶やかに美しい女である。女神のように美しくあらねばならない。
 どうにも定まらずにやり切れないが、いずれにせよ女に空洞が在ること、何もがなくて空洞となっている胎内が在ること、そこに諸々の事物や事象が飲み込まれていることだけは確かにしておこう、そうしなければ話が進みはしない。進まなくともちっとも構わないが、女はこうと決めなくともいつの間にか空洞そのものとなっている、女を照らし出す神なる天に誘われれば更に孕むわけではなくて、きっと始まりは一粒の涙である。一粒の涙の粒が飲み込まれて事物や事象に生き生きとした命の形を与える、そうと望めば話をこしらえるように、一滴の精液のような雫が空洞の中に滴る、あなたの涙が胎盤の上に滴って転がる、指先よりも小さな卵細胞の被膜に滴ると、この受精卵は有り得ないことに再びこの宙として、即ちこの宙の事物や事象ではない別な活き活きとした事物や事象として新たに生み出してくるのである。
 何が本当であるか、即ちこの宙はまた生れ出るというのか。この空虚な空っぽの中に宙はあるというのに、星々は煌めき青白く炎は燃えて、ガス粒子が飛び交っている星雲間に箒星が長く尾を引いている、幼子が線を描くような頼りない母の首の輪郭線が浮かんでいる、広々とした宙の中にぼんやりとした線が広がっている、幻覚であっても宙が在るというのに、空洞の中の母の胎内の受精した卵細胞が分裂して、生き写しである双子ようにこの宙を二重に作り出そうというのか。恐れ多くも天を照らす神は割れた器の片割れを生み出して、荒ぶるものと治めるものとに分けようというのか、それはとても無理な話である。
 ともかくもあなたの涙が精虫となって卵を作っている、きっと卵は鶏のように明け方に鳴くのではなくて、無精卵でもない、生きた宙を宿している。この空虚な母なる胎内に、青白い炎を上げて成熟した宙なる空間を作り出そうとしている。炎は母の胎内を焼く、この空洞を埋めるように揺らいでは、空そのものを焼き尽くして成長していくのであろう、一つの宙なる星雲とガス雲とを生むその度に、母は女へと戻りこの空洞の向こうの黄泉の国へと渡り、そして母は空洞そのものの奥へと進んで腐乱していくのである。一滴の雫が本当にあなたの涙であったのか、もしや光の粒に似せた淫なる黄金の粒子であったかは知らないが、きっと祝福されるべき輝く色に染まっていたはずである。そして母の陰は最後には焼き尽くされて、腐乱は全身に及んでいる。ただ母は夫を持たないために誰にもこの体を見られることはない、また自らを闇の手に委ねて腐乱する体に快楽を甦らせることができるのである。


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歩く魚
詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。