感情教育

題:フローベール著 生島遼一訳「感情教育」を読んで

う~ん、この作品はどう評していいか分からない、というより迷うのである。フローベールの明晰性に富み簡潔に具体的に即物的に記述する文章は、或る時には感情を高揚とさせて心理の襞に入り込んでくる、また抒情性にも富んでいる良い文章なのである。一方、物語的には人妻への永久の思慕、愛人たちとの葛藤と言う愛を描きながら、フランス革命にも話が及んでいる。この愛と革命と言う主題が分裂的でうまくかみ合って伝わってこない。主人公がなぜ革命に入り込まなければならないのか、仲間たちも含めて説得力を欠けているのである。これはフローベールの傑作「ボヴァリー夫人」がエンマの退屈な日常を脱して愛と情欲を満たすための一途な行動を描いた上質な作品を読んでいるために生じているのだろうか。そうとも思えず、この「感情教育」そのものに内在している問題なのだろう。どうもこの「感情教育」とはフローベールの人生譚でもあるらしい。そのために数多の人間が登場してはさまざまに描かれていて、幾分分散気味なのである。

簡単に筋を紹介したい。法学生フレデリックはアルヌー夫妻に出逢い夫人に恋をする。この恋が中心のテーマで、結局フレデリックはアルヌー夫人と関係する機会を取り逃がして、奔放で情熱的なロザネットや選挙目当てにダンブルーズ夫人と関係する。これらの女たちの馬鹿さ加減にうんざりしてフレデリックを慕う金持ちの田舎娘ルイズ嬢に会いに行くと、ルイズは友人デローリエと既に結婚しているのでる。もはやアルヌー夫人は破産していなくなっている。この恋愛話に革命の話が加わっている。社交界などで知り合ったさまざまな人間や愛憎や不倫の話が加わってくる。それぞれが混合して話が進んでいて良く分からなく時もある。それほど辛抱強い読者でないために、読み飛ばすことがあるためである。印象的なのは二つの死の場面だろう、ロザネットに産ませた子の死、ダンブルーズ夫人の夫の死の描写は簡潔でありながら繊細である。夏目漱石の「行人」における雛子の死を書いた文章に近い写実性を持っている。

特筆すべき点は、この「感情教育」の最後に落ちが二つついていることである。もう年老いたアルヌー夫人が身をまかせるつもりやってくる場面と、若き日にデローリエと娼婦小屋に行った時の話である。アルヌー夫人との出会いは印象的な切なさがある。デローリエとの思い出話は幼き時の笑い話である。いずれも悠久の時を感じさせずにはいられない。フレデリックはこうしてみると、もはや長き人生を全うし得ているに違いない。この「感情教育」なる作品は、湧き出てくる感情を手なずけるというより、時の経過を指し示していると思われる。でも、やはり、あっさりし過ぎていて「ボヴァリー夫人」のような濃密さが欠けている。というより濃密さを欠いた写実主義的な自然主義的な文章でありお話である。けれども言い知れぬ味があるのは確かである。

この文章はカミュの「異邦人」に幾ばくか似ていると思われる。サルトルは「異邦人解説」でカミュの文章を『・・章句相互に組織することをしない。章句は純粋に並置される。とりわけあらゆる因果関係を避ける。因果関係は、小説のなかに説明の胚芽のようなものを導入し、瞬時の間に純粋な継起とは異なる秩序を築くからだ』と説明している。確かに章句を並置して組織しないと、因果関係の秩序が組み込まれず、純粋な継起に従ってのみ行動することになる。まさしく「異邦人」のムルソーはこの契機に従ってのみ行動している。この「感情教育」は、そこまで徹底していなくとも、フレデリックにそうした傾向があるのは否めない。この「感情教育」の文章に因果関係を持ち込むと、少なくとも島崎藤村の「破戒」に似た波乱な因果の結果が待ち受けていたはずである。「感情教育」と「破戒」とは情緒の点で似通っているとも思われる。写実主義的な自然主義的な文章でありながら、自ずと言い知れない情感を含み不意に読者の感情に訴える時があるためである。こうした文章論はもう少し調べないと良く分からない。それにしても、エンマの情熱的な不倫を描いたフローベールが、結局結ばれることのなかった永久の思慕を書いていたとは意外にも思われるが、そこを追求するにはもう少しフローベールを読んでみないと分からない。

以上

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歩く魚
詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。