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題:富岡多恵子著 新選現代詩文庫107「新選 富岡多恵子詩集」などを読んで

作家ではなくて、詩人の富岡多恵子を知ったのは、白石かずこ著「詩の風景・詩人の肖像」を読んだおかげである。この「詩の風景・詩人の肖像」の内容の紹介は、今回は行わない。今回の目的はただ一つ、富岡多恵子の「女友達」と言う詩を紹介したいのである。読んだ詩集は「新選現代詩文庫 107 富岡多恵子詩集」である。彼女の詩はとても好いと思っている。いろんな詩集を今まで読んできたが、これほど不思議に言葉が解体された詩を読んだのは初めてである。むしろ、風変わりと言った方が良いのかもしれない。人称がすり替わっていき、他の人称にも征服されていって、作者自身も居ずに、言葉だけが勝手に話し始めている混沌とした泥沼に、もしくは何もない空間に落ち込みながら、「きみ」、「あたし」、「あんた」などが呼ばれているうちに、呼んでいる者がいるのだろうか、いや何者も居るはずがない、空間さえ失われてしまって、ただ生暖かいどろりとした粘性の言葉だけが語られ流れていると思わせる不思議な世界が描かれているのである。たぶん、肉感を持っているから体はあるのだろう、空間も決して失せてはいないのだろう、でも確かに在るのは果てしなく続くと思われる言葉だけで、その他の存在は不確かで、あるのかないのか分からなくなってしまう。それに悲観的ではなくて抒情性を削いでいる、むしろあっけらかんとして多面に想像できる楽しい詩が多い。

富岡多恵子はある時期から詩作を止めて小説家になったらしいが、こういう詩を書き続けていたら相当高名な詩人になったであろう。どうも何が良いか分からないが、彼女はきっと今までの抒情詩や観念詩の枠を飛び越えた「ものごと」の本質如きを突いた詩を書いているのである。天沢退二郎が最後に富岡多恵子論をまとめているが、彼女はなかなか面白い書き方をすると紹介している。彼女が書く詩人論は、ちょいと通常の詩人論からをはみ出て話が逸れてしまうのだ。確かにそうである。彼女の詩は「肉声の美質」的な詩と「哲学的存在論」的な詩の両方を持っており、詩集を編集する際、両方選択できるほど十分な紙数が与えられなかったことは残念である。

この「哲学的存在論」的な詩も締まっていて好い詩である。もし、この詩の技法をそのまま用いて小説を書いたならば、どんなにか良い作品が仕上がったことか計り知れない。彼女自身が小説の主人公の名前をつけることに初めは恐れていたらしいが、良く分かる感覚である。名前などつけずに、詩と同様に「きみ」、「あたし」、「あんた」で小説を書けなかったのだろうか。筋などない思うままの感性のみで小説を書けなかったのだろうか。即ち彼女は主人公の名や筋などをメモした創作ノートを書くのを嫌がっていたが、そのノートを無くして、その日の気分だけで思うままに記述できなかったのだろうか。本当に惜しい、残念である。ただ、そういう小説はごく少数の人にしか認められないだろう。

なお、読んだ詩集に「女友達」が入っていなかった。先に述べたように、白石かずこ著「詩の風景・詩人の肖像」に紹介されていたこの詩が、最高に素敵なのである。そこでいろいろ探してみたら「現代詩文庫15 富岡多恵子詩集」の中にやっとみつけることができた。ここにその詩を紹介したい。

  女友達
       富岡多恵子

となりの
二号さんがお経をよむ
ひるさがりに
ロバのようなどうぶつが
窓のしたを通るのを見た
それをカーテンのすきまから見た
いつもカーテンのすきまから
あたしに逢いにくる女のひとがいるのに
今日はまだこない
ジョウゼットでできた
安南人のようなきものをきて
男好きのする腰つきで
かの女はくる約束をした
今日はまだこないので
今日死んだのかもしれない
このまえ
かの女と旅をしたら
田舎のコットウ屋で
ドイツかどこかの古い木版画を
ほしがったことがある
田舎の宿で
あなしはかの女の
ブリジッドバルドウのような
もりだくさんの髪の毛を
はじめてかきむしることができた
ふたりは踊った
いつまでも
かくれないの頬よせて
ウィンのワルツを踊った
透明のかの女の
楽天的思想が
ときたま汗のようにこぼれる
のをわたしは泪とまちがえたい
かの女は今日こない
となりの二号さんのように
まひるから声をあげて
祈るのである
かの女は
こない約束はしなかった
往ける者
往ける者よ

読んでみると現在の詩とは、感覚的に明らかに異なっている。言語の文法的規則がおおらかで、むしろ文法などないためか、言葉が連なって、多層な風景を優しく重ねて撫でているのである。こう言えば簡単であるが、風景が分からないように、むしろ継ぎはぎされている。彼女の言いたい言葉は、説明はしないが「往ける者」であろう。きっと般若心経と関係する。色は空に優るのだろうか。それとも悲しみを歌っているのだろうか。他の詩では文法も風景も意識せずに自由な楽しさだけがある。ただ、この楽しさは行き付き先を忘れさせて迷子にするか、迷子になっても困らないけれど、言葉を励起する運動をいつまでも起こさせて休むことができない。きっと作者も読者も休憩だけが許されている。

以上

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歩く魚
詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。