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題:ピエール・ショルデロ・ド・ラクロ著 武村猛訳「危険な関係」を読んで
う~ん、どうなのだろうか。たぶん、この本は傑作なのだろう。でも、結末がばたばたと進んで味気ない。もっと別な結末を想定していて裏切られた気がする。ピエール・ショルデロ・ド・ラクロは、訳者の解説によると、1741年生まれ。本書は心理小説であり、スタンダールの「赤と黒」に繋がったとも述べている。本書の裏表紙の言葉を一部引用すれば『貞淑な夫人に仕掛けた巧妙な愛と性の遊戯・・子爵を慕う清純な美少女と妖艶な貴婦人。幾つもの思想と密約が潜み、幾重にも絡まった運命の糸が、やがてすべてを悲劇へと導いていく』その通りである。だが、この悲劇な結末が本書の心理小説としての面白みを欠いているのである。でも、悲劇へと至るまでは、微細な心理を描いた小説としてとても面白い。十名ほどの書簡のみにて表現されているこの表現形式が、心理を相手によって巧みに異ならせている。このことがそれぞれ各人の心理を浮き彫りにして、心理表現に深みを与えているのである。こうして本書を読んでみると心理とは画策すれば思うままに導けると信じることができ、少し以前まで言われていたマインドコントロールができるものなのであろう。ただ、本書は細かい字で約600頁もあり、読むのは結構辛抱がいる。
簡単にあらすじを紹介したい。浮名を流す女たらしのヴァルモン伯爵は姦計に長けたメルトイユ侯爵夫人とは昔恋人同士であった。今でも手紙のやり取りをしており、清純な美少女セシルを性に目覚めさせるように依頼されている。でも、ヴァルモン伯爵は信仰に厚く貞淑なツールヴェル法院長夫人を口説き落とそうと画策している。メルトイユ侯爵夫人はもし法院長夫人を口説き落とすことができれば、自ら自身を与えると約束する。ヴァルモン伯爵はダンスニ―騎士に恋しているセシルを、うまく騙して手に入れる。セシルの心はダンスニ―騎士にありながら、もはや体はヴァルモン伯爵の物なのである。一方、ツールヴェル法院長夫人はヴァルモン伯爵に恋心を抱かせても、居場所を変えるなど手ごわくてなかなか落ちない。そのツールヴェル法院長夫人もその信仰深さをヴァルモン伯爵に利用され、終には貞淑さを奪われる。もはや彼女の心も体もヴァルモン伯爵のものとなる。これがメルトイユ侯爵夫人の嫉妬心を煽る。彼女は自らを得たければ、ツールヴェル法院長夫人を捨てるように要求すると同時に、ダンスニ―騎士と仲良くなる。ヴァルモン伯爵はメルトイユ侯爵夫人を得たくて、要求通りの手紙をツールヴェル法院長夫人に送り、無慈悲にも夫人を捨てる。彼女は気が触れて重い病気になる。ダンスニ―騎士はヴァルモン伯爵のえげつないやり方を知り決闘を申し込む。そして、ヴァルモン伯爵は死に、またツールヴェル法院長夫人も救われずに死ぬ。セシルは修道院に入る。メルトイユ侯爵夫人は痘瘡にかかり美貌を奪われる。と同時に過去の社交界での姦計が逆作用して皆に後ろ指を指され、かつ嘲笑われる者になるのである。
本書の読みどころは何と言っても、ヴァルモン伯爵とメルトイユ侯爵夫人なる二人、企みに長けた陰謀家の同士のメルトイユ侯爵夫人自身の体を賭けた心理的な戦いで有ろう。また、それ以上に、ツールヴェル法院長夫人の恋に落ちていく心理的な過程であろう。この心理はヴァルモン伯爵との手紙ではそれほど現れないが、伯母などに送る手紙ではより鮮明に表れて、もはや恋に落ちて逃れようとしても逃れられない心のさまが明確に綴られている。そしてヴァルモン伯爵がツールヴェル法院長夫人を抱くシーンである。本小説は性的な描写は極端にない。ツールヴェル法院長夫人を抱く場面、及びセシルを抱く場面のみが短いながらある。罪の意識を取り払ってツールヴェル法院長夫人の抱く場面はとても印象的である。この三人が主役であり、セシルとダンスニ―騎士は脇役である。
作者は最後に関係者の誰にも死など与えて、姦計する者、放蕩する者に罰を与えている。ただ、読者の希望としてはヴァルモン伯爵とメルトイユ侯爵夫人とを直接会わせて対決させて欲しかった。姦計に長じた二人の悪役は最高のクライマックスを演じることができる。これらの者がそれぞれの心と体にどういう結末を導き出したかとても関心がある。無論、この結果は、その時の思い出として手紙に綴れば良い。とても惜しまれるのである。でも、本書ではツールヴェル法院長夫人が捨てられまでの心理描写は息も継がせずに読むことができる、とても優れた作品である。日本の小説では芥川龍之介の「藪の中」が互いの口述が異なっていて面白いが、単に事実の不鮮明さを記した作品である。ところが本書は心理が輻輳して、かつ相手によって現れ出てくる心が異なってくるところが、またこの心が事態の推移に従って変奏していくところが、とても上手く記述されているのである。
谷崎潤一郎と渡辺千萬子との手紙のやり取りを読んだことがある。息子の嫁に送る谷崎の親心と下心とは良く分からず、本書の心理に比べようもないが、でも、手紙によって心を描いている点ではとても関心を引く。無論、本書の方が心の暗躍や葛藤と苦悩や救いを明瞭に記述している。谷崎潤一郎と渡辺千萬子とがどういう本心を秘めていたかと言う点で関心を引くのである。つまり手紙による文章は文字によってしか伝えることができない。視線の瞬きや悩ましい吐息や高揚としてくる肌の色などの表情が無いために文章の表現によって、相手の心を引き付ける魅力もまた悩ましさも増幅してくるのである。つまり文章と文章の不足部分を上手に利用して、想像力を掻き立て相手の心を引き付けることができる。三島由紀夫の「レター教室」を読んだことがあるが、もう忘れている。でも恋文も相手によっていろんな書き方ができるはずなのである。余計なことながら三島由紀夫の失敗作と言われている「鏡子の家」もこの「危険な関係」のような構造になぜしなかったのか。鬼才にすれば、鏡子と四人の男との関係は単純すぎる。脇役の女が一人いたはずであるが存在が希薄であった。主人公の男女二人に、複数の男女を絡ませれば、複数の心理が入り乱れ葛藤する良い作品になったはずなのである。それにしても夏目漱石の「こころ」は優れた作品である。作者が意図的に隠した心の部分が今もって謎に満ちて、でも赤裸々な告白として心に響いてくるのである。いったい漱石は「こころ」で何を言いたかったのであろうか。今もって謎である。
最後に、この「危険な関係」は良い作品であるが惜しまれる部分もある。いずれにせよ、完璧に傑作な小説を描き上げることは難しいことでもある。
以上
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