薔薇とハナムグリ

題:モラヴィア著 関根英子訳「薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短編集」を読んで

初めて読む作家であるが、イタリアの作家であるらしい。脊椎カリエスを病み長い療養生活を送っているが、小説や評論、旅行記など多彩なジャンルで活動し、欧州議会の議員にもなっているようである。「無関心な人びと」などの長編ではなくて、本書は短編集である。表題の「薔薇とハナムグリ」など、全15の作品からなる。半分くらい読んで幾分飽きてくる。現実を超えた奇抜な発想を持ち、この幻覚的な発想が表現力豊かな文章に支えられているが、如何せん表層的であり、風刺的であり、読めば種と仕掛けが容易に分かってしまうのである。特質すべき点は「薔薇とハナムグリ」のようにエロシチズムに支えられている作品があることである。ただ、このエロシチズムは濃密さ、濃厚さを保ちながらも、それ以上に進展し何かを訴えることはない。

「薔薇とハナムグリ」は、ハナムグリという昆虫は薔薇の奥部に侵入してエロシチズムを感じ果肉を食するのを習性としている。主人公の娘は初体験の日に、母親にハナムグリとして真っ当に行動するように諭されながらも、キャベツの方に魅力を感じてキャベツの内部に深く侵入してしまう。後で誰かがキャベツに入り込んだと母親に知らされるが、娘は薔薇は気持ちが悪いわと言ってさっと話題から逃れる、それだけの話である。こう単純にモラヴィアの作品を言い切ると何も記述できるなくなる。他の作品を紹介したい。「部屋に生えた木」では巨大な木が部屋の中に生えてきて夫人はとても愛しているけれど、夫は毛嫌い、夫人の仲間は冷笑する。「怠け者の夢」では、恋する男は愛する女と会うけれど、常に幻想や幻覚に満ちていて、何一つ愛を告げられるままいつの間にかベッドの上に寝転がっている。たぶん、読んだ限りでは現実と夢想の間の境目が溶け込んでいて良い作品であるけれども、やはりそれ以上の何かを感じさせない。

「精麗閣」は結婚式の会場で、いつしか誰もが天井から吊り下げられて運ばれていくのである。「夢に生きる島」では夢を現実とするモグラの怪物なる王様がいる。「ワニ」では招かれた部下の夫人は、上司の夫人や召使が背中にワニをぴったりと張り付かせているのを知り、自分もそうしたいと望むようになる。「疫病」では何やら疫病が流行っていて著者は何かを論じている。こうしてみると、まさに、「シュルレアリスム・風刺短編集」という言葉が的を射た表現であるのだろう。超現実的な描写であり、その描写の目的は風刺であり批評であり、それ以外の何物も持たない。もっとシーニュや象徴性や謎に味を加えて記述していれば、全部の作品に目を通すことができたに違いない。シュルレアリスムと言えば、アンドレ・ブルドンの精神の奇妙な不安定的な状態を記述した作品の方が好きである。

シーニュや象徴性に富んだ作品としてはフランツ・カフカなどがとても優れている。モラヴィア奇怪さに傾斜しすぎていて、日常に目を留めない。彼は日常の子細なことにシーニュや象徴性を見出さないためであろう。日常こそ、非日常を含みきっと本物の奇怪さに富んでいる。この日常の奇怪さを表現すれば、もしくは日常から奇怪さを抽出して日常に再び組み入れて表現すれば、作品としてもっと深みを加えることができたはずである。奇怪さが存在論的な深みを消して単に風刺的な作品としてしか見られずに、残念なことでもある。でも、こうした作品が好きな読者も多数いるはずである。

以上

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歩く魚
詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。