題:ニーチェ著 茅野良男訳「曙光」を読んで
本書はニーチェの「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」より以前の作品である。「道徳の系譜」は読んでいて面白かったと記憶している。道徳について語る時のニーチェは露わに、声高に叫んでいる。ニーチェは体調不良のためバーゼル大学の教授職を捨てて各地を転々とするとしたことがある。生の活力が著しく低下した時期で、ただ、病気に耐えながら「人間的、あまりに人間的」や「曙光」、「悦ばしき知識」などを著述している。自己の思想を見詰め直して、その後の「ツァラトゥストラ」、「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」に繋がっていくのである。従って「曙光」にはこれらの著作物に表れる思想的な萌芽や自覚が見られる。これらの詳細は訳者の茅野良男による「解説」に記述されている。無論、本書の内容についても簡明に記述されている。この「解説」の方が詳しいのでそちらを読んだ方が良い。
それにしてもニーチェには、一日の時間的な役割分担があるかのように本の表題を記述している。無論、思想にも同様にある。「曙光」や「正午の思索」、「黄昏」など移り行く一日がニーチェの思想の全体かと錯覚させられるほどである。この「曙光」は一日の朝であり、肯定的かつ楽天的な記述が含まれている。本書はアフォリズム(箴言もしくは断章)形式であり、読み解くのは難しい。既に各種の詳しい解説書などがあるはずでありながら、ただ、引用しながら簡単に内容を示したい。なお本書の副題は「道徳的な偏見に関する思想」となっている。また、全部で五書から成り立っている。訳者の「解説」によると、第一書と第二書が主要思想を、第三書と第四書が周辺思想を、そして第五書がまとめになっているとのことである。
まず、ニーチェは、共同体と恐怖一般の感情、風習との関係をまず述べ、力の感情と関連付けている。『無力の感情と恐怖の感情は、とても強く、極めて長い間、ほとんど絶え間なく刺激されたので、力の感情は、人間がこの点で最も鋭敏な金秤りと張り合うことができるほどの精巧さまで発達した』(断章23)のである。そして道徳における狂気の意義として『新しい思想に道を拓き、尊敬されていた習慣や迷信の束縛を破るのは、ほとんどいたるところで狂気なのである』(断章14)こうして恐怖と力と狂気の関係が示されている。「力」なるものの概念の萌芽が見られるのである。そしてキリスト教徒の運命について述べる。『律法は罪を絶えず駆り立てたのである。・・今や単にあらゆる罪が除かれたばかりか、罪自体が絶滅された。今や律法は死んだ。今や律法が宿る肉体は死んだ。・・いわば腐敗しつつある。この腐敗の真中にいること!――これがキリスト教徒の運命である』(断章68)
そしてニーチェは道徳について述べる。人類は目標を持たないために、道徳の要求を人類に関係させてはならないのである。ただ、目標を持つことを勧めることはできて、この時自らに随意に道徳法則を与えることができる。ただ『これまでの道徳法則は随意をこえたものとされていた。人々はこの法則を自分に本来与えようとせず、どこから受け取り、どこかで見出し、どこかからか命令されることを望んだ』(断章108)のである。さらに認識、主観、感覚や理性などについて述べながら、道徳も論じている。『人は何が本来道徳的なものを形成するかを知っている、という偏見より以上によく信じられている偏見はないであろう』(断章132)『絶対的な道徳というものは存在しないからである』(断章139)などとニーチェの基本的な道徳への立場を露わにする。
『力の魔物。――必要でもない、欲望でもない――否、力への愛こそ人間のもつ魔物である。人間に一切のものを、健康を、栄養を、住居を、娯楽を与えよ。――それでも人間は相変わらず不幸であり、気まぐれであるだろう。というのは、魔物が待ちに待ち、満足しようと望んでいるからである。人間から一切のものを取り去れ、そして魔物を満足させよ。そうすればそれらはほとんど幸福になる。――まさしく人間や魔物たちが成り得る限りの幸福になる』(断章262)この力の概念は(断章23)と異なっている。力の感情は文化の歴史であると述べていたが、力への愛、力の感情の励起こそが本来のニーチェの意図であると思われる。
それにしても、やはりアフォリズム(箴言もしくは断章)形式とは難しい。というより、流し読みに適している。「力」という概念を理解するには、「権力への意志」を読まなければならないだろう。
以上