ダニエル・デネット著 土屋俊訳 「心はどこにあるのか」を読んで
この本についてどう書けば良いのか、困っている。哲学書に近いエッセイ、エッセイに近い哲学書であり、その内容は生物の進化による心の進化である。無論、この進化とは無性生物や低次元の有性生物から人間の心を獲得する過程そのものである。線虫やミミズやカラスに犬などの生物と比較して、高度に作動するようになった人間の心である。と言ってそれほど難しい訳ではない。難しい論理的な文章は少なかったけれど、言おうとする真意が分かるけれど、評価が難しいのである。詩的に華麗さを持った文章も多くて、うっとりと眺めていることも間々生じる。美しい文章過ぎて、間々眠りたくなることもある。訳者土屋俊による「訳者あとがき」を最後に読んだら、第一、二章が哲学的で、それ以降の六章は心の進化のおとぎばなしであるとのこと。つまり本書はエッセイ的だということで、まず第三章以降を最初に読むべきだと言っている。そうした本の読み方とは、自らにとって不必要な部分は飛ばして読みをすべきだったということである。でも、一応飛ばすことなく、それなりに全部を読んでいる。
結局、全六章それぞれを簡単に紹介し、私の本書への感想とともに私が望んでいたことを付け加えて、感想文としたい。そもそも心とは喜怒哀楽や快不快などの感情や善悪の判断を行うものと認識していて、一般的には意識と言われるべきものと私は思っている。従ってこの心に歴史的な進化を加えるとするなら、「心はどこにあるのか」ではなくて「心はどこに住みついたか」などと、進化の過程を示す題名とすべきである。「どこに」という言葉が既に示している通りに、人間の心は「言語」によって他の動物と区別されると言うのが、本書の趣旨である。ただ、この言語はそれほど深いものとは思われない。さて、まず本書の内容を紹介したい。
はじめに
心は生命誕生の微生物のなる昔からあるものであり、心を他の動物と比較することで、最後に人間の心に到達できるものにしたい。
第一章 さまざまな種類の心
私たちは自分の心を内側から知っていて、同じ心を内側から知るものはふたりといない。ただ、一つの心だけが存在するというのは不可能で、さまざまな心がある。言葉があることこそが、これを説得できる。言葉は語ることができ、自分の思想について語ることのできる心と語ることのできない心がある。こうして著者は人間以外の動物やロボットなどと合わせて心について述べる。
第二章 そこに意識は存在するか
本章が一番詳しく語っている。まず主体性を問うのである。行為を遂行する複雑さを備えた最初の巨大分子のなかに主体性の誕生を見出すのである。この主体性は心を持たず小さな機械・ロボットのようでありながら、主体性の基礎となる。このロボットが身体を獲得して自己防衛や治癒するためのシステムを持つようになり、制御できるシステムと変貌する。そして対象に対し活動や選択をする志向的な構えを取ることができるようになる。人間はこのロボットを要素として成り立ち、意識を持っている。そして志向的な構えから対象を主体と見做して、行為や動作を予測する。内省的な思考を身に着けた人間は他者の心に関心を持ち予測できるのである。言語こそが人間に内包させる能力を与える。内包とはいわゆる想像力と言っても良い。こうして著者の思考は論考を重ね、概念、命題などを論じて、内在的状態と行為が本来の志向性を持つことになると述べる。こうして、派生的な指向性含め、著者は思考語と脳との関係性や経験などに力を込め記述を走らせるのである。なお、派生的な指向性とは内在的な指向性と対比させた指向性で、条件反射的に指向することである。
第三章 身体と心
主体における志向システムに関して、知覚と刺激の考え、更にメディアとメッセージの考え加えて論考する。また、主体における神経システム、ネットワークに身体を加えて論考する。即ち、ニーチェの文章を参考にしながら、われわれの制御システムは独立していないため、知恵を身体の内部に宿していて、日々の意志決定を行っているのであると述べる。
第四章 心の進化論
知覚を加えて、内部指向性から近接指向性へと移行し、さらに遠隔指向性へと移行できたとする。これらの志向性の種類は、知覚との距離感に起因している言語である。こうして、進化は身体のまわりから入手できる情報を受ける膨大な数の専門化した体内主体を生み出したとする。いわば微小主体がもつ、それぞれ固有の知的飢餓状態が組織化され、ネットワークで連結されてできあがったと述べている。無論、進化過程における進化の階層にも思いを馳せている。説明には、認知過程の変更にヒュームの観念連合説を取り入れている。いわば、観念連合説、行動主義、結合主義の英語の頭文字を取り、ABC学習と名づけて、またポパーの有利な事前選択を行う説などを取り入れて、論理学も加えて長々と説明している。参考までに、ヒュームの観念連合についてはヒューム自身が述べているほか、ジル・ドゥルーズが詳しく解説している。
第五章 思考の誕生
他者の心を推測する自己意識の発達、かつ言語、記号の役割について述べている。数字や記号、言語は目印なのであり、この目印が思考や想像を生み出す源となるのである。
第六章 わたしたちの心、そしてさまざまな心
今まで用いていた、意識、目印、言葉などを使って何が問題であったのかと問い直している。
さて、私はダニエル・デネットの著書では「心はどこにあるのか」を初めて読んだのである。従って、彼の心の進化論を問う意味を十分に理解できていない。ただ、本の題名を知った時に、関心深いテーマであると即断して、「心の進化を解明する」と題する厚い本も買っている。なぜか私は即断してしまい、意識・心とともに、心に生まれてくる倫理・道徳観も彼の著書に記述していると思ったのである。間違えたからには仕方がない。それ以上に、シンギュラリテイを超えた時に人間の心はどうなっているのか、人工知能と同等な生物・機械として人間は存在できているのか、人工知能の生み出す心に圧倒されているのか、その記述さえ含まれていると思ったのである。第六章で『倫理的な問題を左右する精神性の特徴をすべて見渡したとは言い難い』とデネットは述べているが、前後の文章から判断すると、倫理・道徳観の根幹を成す善悪の生成を意識して記述しているとは思われない。また未来の心も記述しているのだろうか。でも、一冊だけ読んだだけでは分からない。
私の関心は、人間の善悪の倫理・道徳観は心の進化の過程に生まれたのだろうかということである。生き延びるために生物は敵対する生物を絶滅しようとしていたのだろうか。そんなはずはなくて、この世界において、生物の捕食は善悪とは無関係に、生物が質と数を保って生存し続けるための方策なのである。人間だけが善悪なる心を持つと同様に、動物にも他の動物への救済や絶滅の心があるとは思われない。人間の倫理・道徳観は生存欲求以外の感情や欲望が支配しているのか知りたがったが、本書に記述はなかった。それに、未来に向けての心の進化、特に人間の心を超えたある種の心の進化の記述もなかったのである。こういう記述を求めていた私は欲張りなのではなく、私の関心ある根源的な知的欲望を満たしたかったのである。
また、感覚や意識を持つ心とは今までにたくさんの哲学者が解析している。言語に関しても構造主義者を中心にして解析されてきた。ベネットが述べていたヴィトゲンシュタインなども言語に関して結構な著作物がある。更に彼が述べていたデカルトや心身一元論も彼以前の哲学者が記述していて、ダニエル・ベネットの新鮮さが文章表現としてはそれなりに伝わってくるが、哲学的思想としての新鮮さがあるかどうか分からないのである。例えば指向性と言う思想は、現象への認識から派生した現象学以上の思想内容を持つのだろうか。また、結合主義を含めたABC学習とは現代の思想として役に立つのか分からないんである。まあ、時間があれば「心の進化を解明する」と題する厚い本を短時間で読んで、ベネットの思想の輪郭と広がりを確認してみたい。
以上