
題:ドストエフスキー著 小沼文彦訳「白夜」を読んで
ドストエフスキーの長編は疲れるため主に短編を読んでみたい。この「白夜」はそう意味で言えば手軽に読める作品である。でも、裏表紙に書いてある『ドストエフスキーには過酷な眼で人間の本性を凝視する一方、感傷的夢想家の一面がある。ペテルブルクに住む貧しいインテリ青年の孤独と空想の生活に、白夜の神秘に包まれたひとりの少女が姿を現し、夢のような淡い恋心が芽生え始める頃この幻はもろくも崩れ去ってしまう』というのは少し言い足りない。現実と幻想がヴェールで包む白夜に現れた少女の謎に満ちた心理に翻弄される哀れに夢見る男の話であるが、この少女の本心はなんであったのか。現実と幻想の境目にいる可愛らしくも小悪魔的な少女は、饒舌でありながらその存在さえ希薄である。その少女に恋を告げた途端、少女は他の男に連れられて現実からも幻想からも去ってしまう。本小説の主要テーマとは淡い恋を心含んでいても、この現実と幻想の境目に生きている人間たちとその心にあるに違いない。それ以上に、ヴェールに包まれたこの世界そのものの幻覚的な存在構造を表しているとは言いすぎであろうか。過酷な心理小説を書くドストエフスキーの純粋に感傷的な一面が現れ出ていることは確かである。また、見方によってはこんな馬鹿げた話を感動する作品に仕上げるドストエフスキーの手腕は見事である。
「地下室の手記」では愛する娼婦が訪問して来ると抱いてしまう、そして思わず金を差し出すという不合理な現実的な心理を描いている。でも「白夜」は少女の心理も現実さえも謎を秘めたまま消え去る。少女を幻覚していたのか、それとも実在していたのか不確かなまま物語は終わる。この現実と幻覚との境界の曖昧さが作品の質をすごく高めている。あらすじを簡単に紹介したい。主人公なる男は少女を荒くれ男から救い出して会うようになり、互いの話をする。男は引きこもりであり恋を夢見ている話をする。ナースチェンカという名の少女は決して恋してはいけないと言い、身の上話をする。祖母にピンどめされて孤独に暮らしていたが、祖母の下宿屋に間借り人として若い男が暮らし始める。この男に「セヴィリアの理髪師」の観劇に誘われて行く。もはや少女は男に観劇に誘われることを待ち焦がれるようになる。そしてこの若い男がモスクワに行く段になって一緒に連れていってとせがむ。主人公なる男はもう愛していると告げていて、少女にも受け入れられている。一緒に暮らす約束もしている。結局、男が再び会いにやって来ると約束を取り交わす。でも、少女はこの若い男はもう戻って来ているのに会いにこないと嘆いている。主人公はこの二人の仲を取り持つ。若い男は居ないのかなかなか現れない。でも或る夜、稲妻のように男は現れて、愛しあう二人は主人公の目の前から去っていくのである。
本作品の魅力は何て言っても会話であろう。それはドストエフスキーの魅力であるのかもしれない。相反し交錯し変貌する心理が会話の内に見事に描かれている。地の文において交錯し矛盾することは許されない。でも心理は相反するのであり、矛盾することこそが会話における真理である。日本の作家で太刀打ちできるのは夏目漱石くらいであるかもしれない。ナースチェンカの心理の本質はどこにあるのだろう、彼女の本質は本質を持たないことである。娼婦的な策略と巧緻性に満ちた少女と言ってはいけない。彼女も主人公の男と同様に夢を見ている。幻想ではない現実的な夢である。この夢に従って本質を溶解させて、本質を変貌させることこそが少女の本質であると言うこともできるだろう。少女は蝶のように変態する、本質と言うより類まれな変わり身の早い能力を持っている。本質とは可能性に満ちた能力であるとするなら、少女は確かに本質を身に纏い心に備え付けている。
ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」は読んだことはないが、いや読んでもすぐに挫折したか忘れたけれど、本書はドストエフスキーの限りない本質を表しているに違いない。それは心理の澱みながらも流れ移り行く、かつ渦巻く波のような動きである。この波が重って押し寄せて来る言語空間の緻密さであり饒舌さである。ナースチェンカが告げる言葉の声がこの空間を伝わって今なお残響している。
以上
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