ダダ宣言集_ツアラ

題:ツァラ著 塚本史訳「ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集」を読んで

ずっと以前、アンドレ・ブルドンとトリスタン・ツァラの詩を読んだことがある。ブルドンは難解で何を書いているのか分からなかったし、ツァラの詩も奇妙奇天烈で得体が知れなかったことを思い出す。ただ、こうして「ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集」に掲載されているツァラの詩を読むと、それほど高度でもない。単に肯定も否定とも拒否して、表現の枠内にて言葉を構わずに無意味に無作為に使用してダダと叫んでいるようなものである。一般に、ダダとは肯定者であると同時に破壊者である。自らの述べていることに対してさえも否定的であるが故に、シュールリアリズムへと吸収されていったことも当然と言うことができよう。

ブルドンの「シュールリアリズ宣言」が無意識のうちにおける自動記述など相応に理論だっていたのに対して、「ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集」では、ただ、ダダと宣言しているだけの反芸術運動である。なお、ダダは、1926年キャバレー・ヴォルテールの開店に始まる。言わば戦争への嫌悪感がキャバレー・ヴォルテールに芸術家を集めて反戦の意志表示をして、新しく始まったお祭り騒ぎに「ダダ」という二音を与えることになるのである。この運動は世界に飛び火する。この辺りの経緯も、ツァラとブルドンの時間的な推移に従った仲違いや仲直りも理解するのはやぶさかではないが、ごめん被りたいというのが本音である。なお、本書「ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集」とは、第一次大戦中のチューリッヒと戦後のパリで、1916年から1922年にかけて6年間のツァラのダダの宣言、評論、詩を集めて訳したものである。

こうした文章で説明するよりも文章で示した方が分かり良いであろう。なお、本書は「ダダ宣言集」、「ダダ評論集」、「ダダ詩集」の三篇からなるが、「ダダ評論集」における「ダダに関する講演」が分かりやすくダダについて述べていて、これを引用して示したい。無論「ダダ宣言集」における文章の方が圧倒的に破壊する力を有していて、彼らの情熱と馬鹿さ加減の両方を知ることができることは留意しておく必要がある。引用する文章は次である。『ダダはひとつの精神状態です。だからこそ、ダダは人種や出来事によって姿を変えるのです。ダダはすべてに適応します。でも、ダダは何ものでもありません。ダダは「はい」と「いいえ」が出会う一点です。もろもろの人間的な哲学のお城で厳かに出会うのではなくて、ただ単に、街角で犬やバッタと出会うように。ダダは、人生のすべてと同じくらい役に立ちません。ダダは、人生の模範となるような気取りを少しも持ち合わせていません。ダダは処女の黴菌で、理性が言葉や約束事で満たすことのできなかったあらゆる空間に、空気のようなしつこさで入り込むのです』と割と冷静に的確にダダを言い表しているのである。

「ダダ評論集」では言語表現を歪曲させながら、でも相応に能力があるせいか的を射て論じている。知らない作品の方が多いが、「ロートレアモン伯爵あるいは叫び」などは、ダダの文章が的確に溶解して粘液質的に言い得ている。けれど、文章は引用しない。「ダダ詩集」では「サーカス(1917)」などが良い。なお、中原中也の「サーカス」はこの影響を受けた作品なのだろうか。日本でも結構ダダの影響を受けた詩人がいる。何人かを読んだことがあるが、あまり魅力を感じないのは残念である。いわゆるダダとは表層を走った一瞬の亀裂・爆発のようなものだったのだろうか。

以上

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歩く魚
詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。