白石かずこ著 「浮遊する母、都市」を読んで
白石かずこが死んだと新聞に載っていた。93歳である。新聞に載っているからにはきっと死んだんだろう。詩集「砂族」は良く読んだものである。特に一番初めの詩「手首の丘陵」が好きであった。感想文を探したが、整理が悪くて見つからない。ただ、書いたものを順番に載せているためである。もう、膨大な数になっている。以前、ジル・ドゥルーズなど哲学者の感想文をまとめようと思った。でも行っていない。三十作以上読んでいて多く面倒なためである。そもそも感想文を書き始めたのは、哲学書の内容理解の為に、忘れないために行い始めためているから、著者ごとの整理は、ぜひとも行わなければならない。でも、行わないだろう。
白石かずこ著「詩の風景・詩人の肖像」の感想文は確かに書いたはずである。富岡多恵子の詩集もこの本から知り読んだ。また、「黒い羊の物語」の感想文も書いているはずである。カナダから帰国し、疎開などするが、見慣れない黒い羊として暮らすことになる。でも、後半は結構詩人たちとの交流が描かれていたと記憶している。白石かずこは電話魔で、しつこくなかなか切らなかったらしい。友人泣かせであったらしい。本当かどうかは知らない。でも、どの感想文も見つからない。ただ、「浮遊する母、都市」の感想文だけが見つかった。ここに掲載する「浮遊する母、都市」の感想文は、2010年12月の感想文を改作したものである。本書を眺めていると、そもそもが感想文の内容として本書全体からの観点が不足している。きっと感想文の書き始めであるためか、白石かずこの感想文の記述はあまり気が乗らなかったためだろう。
当時はこう記述している。無論、一部修正している。引用は『 』で示している。
全体を読み通すとやはり読後感が著しく異なり新しい発見をして、発見と言っても微々たるものであるが、白石かずこにしては珍しく、気のせいかもしれないが沈鬱と鬱屈に、郷愁が込められていると感じ取ったのである。無論、彼女の言葉に本質的な変わりはないが、私は年老いた彼女の不思議な情感を感じたのである。
浮遊するとは、この都市、惑星が生から死の方へ浮き上がることを意味する。元々彼女は言葉を縦横に駆使し時間と空間を超えて、繊細さよりもダイナミックな表現を行う者である。その彼女がギンズバークを取り扱うのは良いが、三島由紀夫が表れてくるのには驚いた。彼女自身が生から死の方へ浮き上がりつつあり、ある種の強い思いが募り思わずに書かざるを得なかったのかもしれない。それがどんな思いであるのか私には分からないが、分からないというというより、他人の思いなど容易に分かるはずがないのである。
三島由紀夫は初々しい裸身の少年として現れる。三島の脳髄がナチのリリシズムに犯されているのかも私に分からない。白石かずこは美しい少年の肉体を褒める。『空から ういういしい惑星がおりてくる』。そして『シュミーズの母という女をムチウチ、恐怖にあえぐのを見すえ、それからナチの笛を吹く』者がいて、『物語は作者がいる限り進行する』と彼女は述べる。だが、『作者は時をたちきり、去る』のである。その去った惑星の橋の下に、以前は『赤い血の死体が流れ・・・赤い炎たちになり』、『海をさかだて』る風が吹いていた。でも、結局は『もうやんだようである』と言う彼女は、この過酷な現実を諦めたのかもう醒めた目で見ている。『もうすぐ 次の世紀にうつりますよ』と彼女は未来への希望を託すが、疾うに惑星たる、物語を進行させる三島はいない。私には白石かずこが新たに希望を託すというより、憂愁の内に諦念を表現しているような気がして仕方がない。今までの彼女には無いことである。
「MI、SI、MA」、「ナチ」、「母」、「惑星」、「ムチウチ」、「恐怖」、「赤い血」、「死体」、「ものがたり」などなどの単語を並べたてると、この意味は上記のような解釈となり、どうしても年老いた白石かずこのリリシズムが少しばかり開示されていると思われる。開けっぴろげな彼女の心の奥底の密やかな思いを垣間見たような気がして仕方がない。彼女はどの単語の何を望んでいたのだろう。もう諦めてしまったのか。まだ望み続けているのだろうか。リリシズムを好まない彼女のリリシズムとは一体何なんだろう。
それに答えるのは容易なようでいて、決して容易ではない。彼女の恋心とは誰にどの程度の熱度を持って向かっていたのだろう。男なのだろうか、地球それとも死体なのだろうか。結局彼女は「死体」と「ナチ」と「ムチウチ」と「ものがたり」を排除し、「MI、SI、MA」と「惑星」に「母」と「都市」を愛していたのかもしれない。でも、排除するものをとても好み、愛するものを痛めつけて排除することもまた彼女は愛しているのである。そうした彼女の真意は本書を読むと透けて見えてくる。結局、白石かずこは彼女の内側に、アクティブに作動するものと作動されるものを持ち、また外側に躍動しながら作動するものを見ていて、不意に彼女の内側へと挿入して消化するのである。
追記:白石かずこの「砂族からの手紙」という何十年も前に書かれた本があるのを知って読んでみたが、若かりし頃の感傷と憂愁は書かれていない、もしくは微々とした記述しか行わずに、生き生きとした彼女の躍動する言葉が、簡明な詩文にて書かれていて、感嘆し読むことができた。「黄色い湖」とはこの本に書かれている話から生まれた詩と知った。詩集「砂族」と「砂族からの手紙」が密な関係にあるのを初めて知った、というそれだけを言いたかったのである。
そして、不思議なことに「ロバの貴重な涙より」と「風景が唄う」を同時並行に読んでいる時に彼女の訃報に接したのである。「ロバの貴重な涙より」は短文詩をまとめたもので、白石かずこ独特の言葉使いはあるが、時間と空間の作動が欠けている。「風景が唄う」は、原稿用紙3~4枚の短い文章を絵入りで五十篇くらい書いたものである。アポリジニの原住民にアレサ・フランクリンなどの歌手にバンド、ジャズに詩人たちについて記述している。白石かずこは音に敏感である。音をとても大切にしている。詩も音楽もリズムなのである。萩原朔太郎流に言うと、匂いとなる。詩の匂いとはどんなにか香ばしいことか。
以上