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備忘録 ver. Festivals and the Japanese

先週末の北海道は、各地平地で雪が降った。
その日は絵本の読み聞かせ映像の音撮りで…札幌ではJRが止まったり、朝からバタバタ。

この映像は海外におくるため、ここしばらくは日本の文化根底にながれるものを読んだり、認識を改めていた。

今日の投稿は宇野正人さんの著書『祭りと日本人』の備忘録として、これを残したい。

音撮り終了、これから編集。

✐☡

日本の民俗学の相・柳田国男は、日本語の「まつり」という言葉は「まつろう」と同義語で、尊い方のおそばにいて仕え奉るという意味だ、と説いている。それは、ご様子を伺い、何でも仰せごとがあれば皆承り、思し召しのままに勤仕しようという態度に他ならないと述べている。ただ遠くから敬意を表すだけではなく、もっと積極的にお仕えし、神の意に応えようとする姿勢の現れだとも言う。これらの考え方は、近世以降の国学者も同じように指摘している。

「まつり」とは何か

この文をみて…パートナーの近くにいたくて、愛知から旭川へ越して行ったことを思い出した。

もう一人の日本民俗学の先達・折口信夫は、有名な『古代研究』の中で、「献る」を「まつる」の語源とする説を、数ある祭り語源説の中で最上位のものとしている。これは折口の国語学の師・三矢重松の説で、「神・霊に食物、供物を捧げること」を意味しているのだが、折口は、もう少し先の、「まつるは神意を宣(の)ること」と説いている。
つまり「まつり」とは、祝詞、部旨を唱誦する儀式であり、神意を具象する為に、祝詞の意を体して奉仕することなのである。そしてそれらが、神意の現実化したことを覆奏する義(繰り返しよく調べてから申し上げること)になったとも言っている。

「まつり」とは何か

“言葉”をたいせつにしてきた、日本人らしいと言っていいかもしれない。

日本人の信仰には「教典」がない。らしい

戦前は『古事記』や「日本書紀』が教典だという説もあったが、あくまでも神話。仏教の経典やキリスト教の聖書のように、教えが説かれているわけではないという解釈。

ただ、「祭り」にはかならず祭主がいて、それぞれのお社のまわりには儀式の作法や心得を指導する者はいた。しかし、その教えはもっぱら行為と感覚によって伝達されるべきもので、常の日、常の席でこれを口にすることははばかられていた。そもそも口で説明できるようなことではないからだ。それらの儀式や作法は、祭りに参加した者だけが体験すべきもので、その体験を通して感得するものなのである。

神ながらの道

またまた、パートナーのことを思い出される。
そして僕らが脈々と受け継いできた、その背景に気づかされる。

「神の道」とは、神によってつくられた道であり、人が神に向かう道である。人は「この筋を歩んで行くより他にない」ーとなれば、神に深い敬意と感謝を捧げ、神の御心を伺い、示された神意の通りに実践、実行する以外にない。「祈り」とは本来「意乗り」であり、それは「神の意に乗ること」なのだ。
ただし、人知を超えた大いなる存在と交流交歓するには、大変なエネルギーがいる。だから、最もふさわしい特別な日に、特別な場を設けて、集団で想いを一つにして、「祭り」を行なってきたのである。

神ながらの道

「祭り」は日本人にとって最も重要なものであった。政治も本来「政」であり、神を祀ってお伺いを立て、神意に則って国や地域を治めることであった。生き方、考え方、心のあり方から、日々の生活、家庭、地域社会、国家のあり方まで、日本人のすべてが「祭り」を元に形作られてきたのである。

神ながらの道

『Flower of Love』では七夕物語の“はじまる前の物語”と“新七夕物語”を描いていく。
そのベースとなるのが“夢祭り”“夢道”だ

時代のうねりや気まぐれで、はなれてしまったそれぞれが、引き合うさまを感じる。

特に神社の祭礼では、神社の中でも境内でも、煌々と火を焚いて神社中を照らす。昔は照明といったら火しかなかったから、たくさんの薪をくべて大きな火を焚き、いくつもの篝火を灯したのだ。照明に油などが使われるようになると、灯明やろうそくを灯すようにもなった。火は明るさだけでなく暖かさももたらす。ケガレを焼き祓う力もある。
日本人は火に神聖な力を感じてきた。祭りの夜、闇を明るく照らす火は、どれほど人々の心を躍らせたことだろう。

自分たちが歓びを感じることは、神霊にとってもうれしく楽しいはずだ、と昔の日本人は考えた。神というこの上なく貴い客を歓待するのが祭りである。

神との食事「直会」

“おもてなし”の原点は、ここにあったんだね。

神食事は、調理法も、器も、盛りつけ方も、常の日とは変わった形にしたのである。
例えば、田の神の祭りに、「えびす膳」などといって折敷(「へぎ」を折り曲げて縁とした角盆、あるいは隅切り盆)の木目を縦にして据える風習がある。神供用のご飯に箸を突き立てて供える風習も全国各地で見受けられる。どちらも普段は「縁起が悪い」と忘み嫌われていることだ。神饌用の特別な作法だから、常の日に人がしてはならないと恐れんだのが、やがて悪いことに転じたのだ。

神との食事「直会」

神と飲食を共にすることを「直会」という。今では、祭りの後に、神供を下ろして神職や氏子が食べる酒宴を「直会」といっている所がほとんどだが、本来は「嘗め合い」が転じたもので、神と人とが一緒に食事をすることであり、祭りの中心行事だった。
同じカメから注いだ酒、同じ釜で一度に炊いたご飯など、神様用に作った物をお裾分けしてもらい、神に供えたすぐ後で、神の御前で食べるのである。神と人とが「同じ釜のメシを食う」わけだ。

神との食事「直会」

その本当の意味を知らなくても、当たり前に私たちの生活に息づいているものがある。

日本人は祭りの時に、神にできるだけ楽しんでいただけるように、その楽しみが少しでも長く続くように、ありとあらゆる手段を尽くしてきた。
特に神社の祭りでは、歌舞音曲、演劇、競技など趣向を凝らした様々な催しがくり広げられる。酒宴のお慰みに神に催し物を披露し、人々もそれを楽しみ、神も同じように悦ばれて杯を重ねているに違いない、と考えたのである。
そもそも「遊び」とは祭りの饗宴のことであり、平安時代には祭りと同じ意味で使われていた言葉だ。芸能は祭りから発達したものである。

祭りという神事

すごいね、日本人。

日本古来の「棚機女」の信仰と、中国の牽牛星と織女星の伝説をもとにした行事が合わさったのが、七夕のお祭り。日本には珍しい⁉︎星に関する行事。

はるか遠くの「常世の国」からやってくる神を待って、聖なる乙女が水辺に作った棚(仮小屋のこと)で機を織り、神の衣を作って迎えた。乙女は一夜神に待って、翌日神を見送った。

七ター七月七日

これが「たなばた」の語源。

古い時代には、実際に選ばれた乙女が棚機女となり、人里離れた水辺の機屋に籠もり、そこを祭場として神を迎え、夜通し祀る行事が行なわれていた。この祭りで重要なことは、翌日、神を送るのに際し、村人が禊ぎをし、神にケガレを持ち去ってもらうことであった。ケガレを祓ってもらうために、棚機女が神を迎えて祀った、ともいえる。つまり七夕は、罪ケガレを祓い、それを神に託して持ち去ってもらうための祭りなのである。

七ター七月七日

七月七日は「七日盆」とも呼ばれ、盆の行事の開始日ともされてきた。
つまり、七夕の行事には、水神祭りの禊ぎ祓いの要素と、盆祭りの要素が混在しているのである。そもそも、「夏祭り→夏越の祓い→盆」は、それぞれが独立したものではなく、一連の行事であったと考えられる。
現在は、七夕と盆を一連の行事としている所と、はっきり区別している所とがある。区別している所では、農村行事としての色合いが濃く、この日に「田ほめ」の行事をする風習もある。七夕の神を田の神と理解しているわけだ。一方、水神も田に恵みの水をもたらしてくれることから、田の守り神とするのが古い言仰である。田の神=歳の神=神格化した祖霊という説に従えば、七夕の神もまた、神上がりした先祖ということになる。

七ター七月七日

また“七夕感”が変わっていくかもしれないね

「花見」という言葉は『万葉集』の時代から使われていたようで、桜の開花は種まきの目安だった。
もともと日本人には花を観賞する文化はなく、中国から伝わったものだった。

また、春の野遊びには、大和朝廷の国見の儀式のように地霊、穀霊と交流・交歓し、その威力を鼓舞する意味も見逃せない。酒は祭りに久かせないものであり、酒の酔いは神との交流・交歓に通じるからである。宮中のこのような催しは、いつしか庶民にも伝わっていく。

「花見」のはじまり

やっぱりお酒は欠くことができないよね

ほうきはものを掃きだしたり、掃き集めたりする道具だから、厄を祓い、魂を集める、と倍じられていたのである。ちなみにお産の神は、農神と重ねて捉えられることが多い。
このように日本人は、生活の中の様々な機能ごとに、それをつかさどる神を祀ってきた。それぞれ多様な性格を持っており、その性格には重なる部分も多い。性格の重なった部分をたどっていくと、田の神、山の神、氏神にたどりつく。八百万の神というが、たくさんの神々がいるというより、むしろ一つの神が多彩な性格を有し、時と場合に応じて分霊していると考えた方がわかりやすい。家々で祀られている神を見ていくと、日本人の信仰が多神教というより、むしろはん汎神教であることを実感する。

かまど神・納戸神・便所神

“八百万”といわれるけれど、そのはじまりは日々の営みでわかれていった、ひとりのたくさんの個性なんだね。

「道祖神」の古い呼び名は「サエノカミ」「サイノカミ」で「塞の神」と書く。本来は、あの世とこの世の境を塞ぐ神、悪霊の侵入を防いで村を守護する神。だから村の境や出に祀られているようだ。

願い事をするからには、そこに神に降臨してもらわなければ聞き届けてもらえない。神に降臨してもらうためには祭りを行わなくてはならない。だから道祖神に願い事をする時は、最低限でも柴を立て、できれば花や供物を供えるのである。それをさらに簡易にしたのが賽銭を供えるという形だ。願い事をするという行為は、簡易ではあるが臨時の祭りといえるだろう。
道祖神は、時代をへるにつれて神の性格や御利益が増えていったのである。

道祖神と地蔵信仰

✐☡

あたらしい発見もあったが…私たちが思っているより、“MATSURI”はもっと身近なものかもしれない。

流るる当たり前が“MATSURI”と知ったとき、また新しい扉がひらくんだね。

すごく上手に読めたよ、ありがとう。

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