加藤智大とその母親(中島岳志本を読んで)
先日死刑執行された加藤智大については、すでに多数の書籍や記事が出回っており、彼がどんな生い立ちで、どういう心理だったかを知っている人が多いと思う。とくに母親による異常な虐待ぶりは有名だろう。本稿では、教育と遺伝に関わる部分を取り上げて少し考えておきたいと思う。
母親の虐待について、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(中島岳志)から印象的だったシーンをピックアップしておく。
①加藤は母親に自宅2階のベランダから落とされそうになったことがある。(加藤がいたずらして食事の用意の邪魔をしたため)
②加藤が泣くと母親はスタンプカードにスタンプを1つ押す。スタンプが10個たまるとさらなる罰を与えた。
③テストは100点を取って当たり前で、95点を取ったら怒られた。
④中学3年生のとき、彼女との交際を母親が執拗に反対した。彼女からの手紙を母親が見つけ出し冷蔵庫に貼り付け、「付き合いをやめないと転校させる」と怒った。
明らかにヤバいわけだが、加藤が23歳のとき、母親はそれが間違っていたことを認め謝罪する。そのとき加藤は仕事が続かず、自殺未遂もしていた。弟は引きこもりになっていた。親が教育の失敗を認めるのには十分の状況があった。
重要なのは、加藤も弟も証言していることだが、母親は怒る理由を説明しなかったということだ。(父親との関係が悪かったことのストレスを子どもにぶつけていたことを母親は認めている。)その結果、加藤は人に何かを主張したいときに言葉を使わなくなったという。行動で「アピール」するようになる。突然殴ったり、突然会社を辞めたりという形で。この奇妙な行動パターンが加藤の人生をどんどん悪い方向に追いつめていった。
ここで行動遺伝学の知見を導入してみよう。性格的な個性も、その個人差の30%程度は遺伝で説明できるという。これほど奇妙な行動パターンを獲得してしまった原因のすべてを母親に着せるわけにはいくまい。もちろん母親自身も相当おかしな行動パターンをしているので、それが遺伝したことも考えられる。なお、父親のほうにも加害的で無神経な行動パターンが見られる。行動遺伝学が示すところでは、家庭環境により幼少期に歪みが生じたとしても、年齢を経るほどにその影響は弱まり、相対的に遺伝的な要因が強く効くようになるという。加藤は23歳で念願だった自動車整備の仕事を「アピール」のために簡単に放り出してしまった。もちろん親は批判されるべきではあるが、その程度は合理的な範囲にとどめたほうがいいとは思う。
加藤は青森高校に進学する。調べてみて驚いたが、青森県の堂々1位の名門校だ。毎年東大合格者を1~3名、東北大は20名ほど出している。立派なものだ。いくらスパルタ教育をしても、才能がなければ合格しなかったはずだ。この問題の母親もじつは青森高校の出身である。しかし、地元の弘前高校では満足せず県外の国立大学を狙い、不合格だったため大学進学自体を諦めたらしい。これも謎の行動だ。県外の国立大学とは東北大学のことだろうか。しかし、そこに不合格だったからといってどうして大学自体を諦めることになるのか。何かがおかしい。そして、そのコンプレックスを子育てにぶつけていった。そもそも加藤は青森高校などという進学校には行きたくもなかった。自動車が好きで、はやく工具を持ちたかった。工業高校がいいと思っていた。青森高校に入学後モチベーションが崩壊し、入学後最初の試験でビリから2番目になる。結局自動車の短期大学に進学し、職を転々とするようになる。
このほかにも遺伝的傾向を感じるのは、女性関係についてだ。加藤は中学2年生のときと3年生のときにそれぞれ女子生徒と交際している。この時点から、性に対する関心が非常に強かったことが窺える。事件前の加藤はネット掲示板に入りびたり、自分はモテないということを頻繁に書き込んでいたことは有名だ。母親にいくら抑圧されようとそういうところは変わらないんだなと思わされる。
安倍元首相暗殺事件の山上徹也容疑者との類似点がいやでも目に付く。母親に致命的な問題があったこと。有名進学校に通っていたこと。不安定な非正規雇用であったこと。事件後に共感を集めてしまっていること。
たしかに、これらの事件は社会の問題を浮き彫りしている側面がある。山上の場合はカルト宗教であり、加藤の場合は教育虐待と言っていいだろう。母親の学歴コンプレックスは社会から植え付けられたものだともいえると思う。それが母親の人生も狂わせ、子どもの人生も必要以上に過酷なものにしてしまった。加藤は中学時代にすでに試験勉強より工具を持って自動車を触りたいと考えていたのだ。子どもの自己理解は正しかったのに、親がそれを無理やり矯正しようとし続けた。こういうケースはきっとごまんとある。それでも普通の人は事件を起こさないのは、たまたま遺伝的に、社会に適応しやすいパーソナリティを持っていたからにすぎないかもしれない。だから社会としては、過剰なコンプレックスや不必要なストレスを解除する努力をしなければならない。そういう教訓にすべきだと思う。