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ビジネスの言葉、科学の言葉、人文学の言葉

 公的なコミュニケーションで使われる言葉には大きく3系統あると思っていて、「ビジネスの言葉」、「科学の言葉」、「人文学の言葉」があると思う。いちばん強いのはもちろんビジネスの言葉なので、基本的にはそれでコミュニケーションを済ますことになる。それで片付けばいちばん話が早いからだ。
 しかし、ビジネスの言葉には特有の問題もいろいろある。企業の利益主義とか消費者のエゴとかによって、ビジネスの言葉はしばしば歪んでしまう。それらの問題を大目に見ても支障がなければ別にそのままでもいいのだが、さすがにまずい状況になることもある。当事者の誰かに過度に負担が集中してしまったりする。それが法律違反であれば法の言葉によって是正を図ることができるが、ここでは法の言葉も広い意味でビジネスの言葉ということにする。問題は、適法の範囲内でも不公正や理不尽はいくらでもあることだ。

 ビジネスの言葉では解決できない問題が生じたときに召喚されるのが科学の言葉であろう。科学的なエビデンスは時にビジネスのロジックをも打ち崩す力を持つ。ビジネスの言葉が孕みがちなエゴイズムを、科学の言葉で咎めることができるのだ。それは非合理的ですよ、あなたの意見にはエビデンスがありませんよと言うことで過熱したエゴイズムを冷ますことができる。
 科学の言葉を使う代わりに人文学の言葉を使うことは出来るだろうか。状況によっては可能かもしれないが、最低限の信頼関係はないと難しいだろう。敵対的な関係である場合は論破、説得を試みる必要があり、その力を持つのは人文学の言葉より科学の言葉であろう。だから世の中でありがちな不公正や理不尽に対抗できる科学的知見があれば、積極的に収集しておくのがいいと思う。それは戦う武器になる。よく揶揄的に「エビデンスで殴る」などと言われることもあるが、現実問題としてエビデンスで殴ることが最も有効な手段である場合は結構あると思う。にもかかわらず、人文系の人たちはエビデンスの危険性ばかりを強調しがちであり、困ったものだと思っている。少なくとも人文学の言葉よりは「役に立つ」のだから、適切に、建設的に使用していくべきだろう。

 上記2つの言葉、すなわちビジネスの言葉と科学の言葉は、理性的な問題解決志向の言葉である点で共通している。それゆえに論破や説得に使える強度を持つ。しかし、それでも問題が解決しないこともある。「技術的問題」であればそれで解決できるだろうが、それ以外の人間関係を含んだ「適応課題」の場合はいっそう複雑さが増す。適応課題にどのように対処すればよいかについては宇田川元一『他者と働く』に詳しく書いてある。

 宇田川は、他者と分かり合えないのは立たされているポジションが異なるからだという。自分の動機と相手の動機が異なるから話が噛み合わないのだ。ではどうすればいいかというと、いったん自分のポジションを忘れて相手の立場になって想像してみる。そこにはどんな力が働いているかを理解できれば、その人の動機が分かる。相手を精確に理解することによって、WIN-WINのポイントを見出すことができる。それがコミュニケーションの正解であるという理路だ。宇田川はあくまで理性的な問題解決志向の枠組みの中で適応課題に対処しようとしている。普遍性があり有用な技術だと思う。

 さて、人文学の言葉の出番はどこにあるのか。公的なコミュニケーションにおいては人文学の言葉の出番はほとんどないと思う。上述の理性的なコミュニケーションで済む場合がほとんどだからだ。人文学の言葉は、公的なコミュニケーションの隙間を埋めるものだと思う。たとえば雑談とか、会話に挟むユーモアとかに使えることがある。また、理性的な問題解決からどうしてもこぼれ落ちてしまう人をケアしたいときには、もはや使える言葉は人文学の言葉しかない。もっぱら人文学の言葉でコミュニケーションを図るとき、それは公的なコミュニケーションと呼べるのか、にわかに曖昧になってくる。
 人文学の言葉のストックが多い人は、いろいろな種類の人に波長に合わせることができる(かもしれない)。ケア的なコミュニケーションの比重が大きい活動をする人にとっては、人文学の言葉は技術的な長所になるだろう。
 しかし難しいのは、ケア的なコミュニケーションというのはいつ要請されるか分からないことだ。理性的なコミュニケーションの関係だったはずの人が、ある日突然ケアを必要とすることがある。たとえば部下が出社しなくなった時など。そういう不測の事態において、普段の言葉を捨てて人文学の言葉が出てくるかどうか。これはかなり難度が高い。実際大半の人は出来ないだろう。しかし、それをきっかけにしてその部下が社会参加自体を諦めてしまったりしたら、その上司には少なくとも倫理的な責任はあると私は思う。人文学の言葉を知らないことは、ある意味で責任の放棄に繋がってしまう。

 理性的な問題解決の言葉を振り回すからには、それと拮抗する強度をもった人文学の言葉も懐の中には持っておきたいものだ。ケア的なコミュニケーションをいつでも発動できる用意があるからこそ、公的なコミュニケーションにおいては容赦なく問題を指摘できるのだと思う。
 

 

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