これでもいいやの精神。
偶然知り得て、たまに色々思うことをつらづらグダグダと書き記すために登録した「note」だが、書いては消し、書いては消しを繰り返し投稿までこぎつけない駄文ばかりが下書きとして残っている。
大して閲覧を稼げるとも思ってないが、それでも公開する手前、ある程度整えた文章を構築したいと考えるも、自分の浅はかな思考をそれなりの読み応えを持ち合わせたうえで執筆するというのは、これが中々至難の業。
結局、表面的な語感や洒落た言い回しを着飾った4,5行の薄っぺらい文章だけが残ってしまう。そりゃ公開にもいかないわけだ。
そもそも長文を書き進めるのがそれほど得意ではないのかもしれない、と思い始めている。台本も書いたことがないわけではないが、物語の整合性もまともにとれてなく、荒の目立つものばかり。これは墓までしっかりもっていかねば、、、。
気軽な気持ちで始めたnoteでさえ、自分で設定する「外に出せるボーダーライン」に振り回されて結局陽の目を見ないことも多々。かつてはミクシィで、その前は個人ブログでも通った道。何も進歩してない(笑)
たまに流れてくる個人のブログやnoteの記事をみると、よくもまぁそこまで魅力的な文章をかけるもんだと感心してしまう。プロの文字書きやブロガー、アフィリエイターではなく『個人』でだ。そんな人たちのある種の「完成形」を目の当たりにして、自分の稚拙な文章が、…それこそ人前に公表をすることを躊躇うくらいには恥ずかしくなる。
しかし改めて考えてみると。自分の考えていることを整理するために文章化する行為はゆっくりと自分と向き合うことにつながっている。そういう側面を考えればただでさえ纏まりのない思考の、ある意味の具現化。あっちこっちに飛び火寄り道するのは当然とも思える。とどのつまり、今書きあがってるこの文章こそ、自分の正直な気持ちなのだ。
物事、出来る人たちをお手本にするのはいいが、自分との比較の仕方を間違えると良くない方向に卑屈になってしまう。自分は別に才能を求めて文章を書いてるわけではないな、と自問自答。ここでやっと、「あ、これでもいいや」と投稿ボタンを押せるようになる。その「これでもいいや」までが実に長い。
その長い長い期間を経て、「これでもいいや」と公開にこぎつけた駄文が今回のお話。
…と、ここまで書いて下書きにしたのが2022年と書いてある。
まる一年とちょっと、寝かせた文章となったわけだ(笑)
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