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「手を抜く」のは良いこと? 悪いこと? ~完璧主義から抜け出そう~
私は仕事での配布物やプレゼン資料、自治体に提出する報告資料などをほぼ良いでき映えで期限通りに作成できている。理事長から「児玉君は資料作りができるから助かっているよ」と言われたこともある。
ところが実は、私は「手を抜いて」書類を作っているのだと言ったらイヤミだろうか? 立派な仕事(?)を実は手を抜いてやっていると言って、私はマウントを取っているのだろうか? いや違う。実は「手を抜く」は、完璧主義から抜け出すための手法なのだ。
学生時代大学一年生のとき、私は毎週提出を求められる実験レポートに完成度を求めるあまり、期限通りに提出することができず単位を落としてしまった。完璧主義のせいだった。二年生で再履修した際には、とにかくその都度のレポートを完成させることに注力し、無事単位を取ることができた。
このとき、一つひとつのレポートについて手を抜いてしまったという無念が残った。しかし同時に「自分が求める完璧な基準を多少下げれば物事を最後までやり切ることができる」という教訓をも得たのだった。この教訓のおかげで私の成果物に対する完璧主義は緩み、仕事で求められる基準を満たすことができるようになったのだ。
ところが、私には「手を抜く自分はダメなんじゃないか」という自分に対する完璧主義が残っていた。「何にでもやる気満々でベストを尽くす自分でなきゃダメだ」という自責の念にかられることがあるのだ。
成果物については、時間やお金などのリソースに限りがあるのは自然なことだ。それを踏まえて振り返ってみると、私の「手を抜く」は、リソースを最大限使って試行錯誤し最適解をアウトプットするため編み出した社会への適応術だった。この「手を抜く」は悪くない。それに対して、最初からベストを尽くそうとせず手を抜くのが悪なのではないか? これは私の「手を抜く」とは違う。自責の念は無用だ。
「手を抜く」は完璧主義から抜け出す良い指針となるだろう。
(800字)
このエッセイについて
作者意図
合評会でいただいたフィードバックのおかげで、「手を抜く」が完ぺき主義を抜け出すために有効であること、それでいて手を抜くことに対する罪悪感もあること、等、私のあいまいだった思いが明確になりました。それをふまえて大幅にリライトしたのがこの作品です。この二つの論点双方について書きました。
完成までの経緯
この作品は第3稿です。第2稿の「完成までの経緯」で「何か大きな発想の転換・気づきがないと第3稿まではなかなか行きにくいかもしれません」と書きましたが、合評会でのフィードバックで「大きな発想の転換」が得られました。合評会の次の日曜日の午後、約3時間をかけてリライトしました。