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海パン事件
私が生涯で一番恥ずかしかった事件は小学1年生の夏休みに起きた。夏休みには、近所の仲間たちと学校のプールに行く習慣があった。行くとカードにスタンプを押してくれるアレだ。
その日も私たちはプールに向かった。男の子も女の子もいた。上級生が引率してくれて、総勢7,8名はいた。プールに着いて、水着に着替えるためにいつも通り更衣室に入る。私も更衣室で海水パンツを出そうと水着袋を探った。
ない。
「アレ? そんなはずは。」
でもない。
ひっくり返してもない。
水着袋は小さい。
ないものはない。
「アーッ! 俺、海パン忘れた!」
プールに来たのに海パンを忘れるなんて。プールといえば海パン、海パンといえばプール。二つは切っても切れない関係だ。それなのに! 俺はなんてバカなんだ!
強烈な羞恥。
「どうしようか?」
私は誰にも告げず一人で家に帰るという選択をした。
その日の夕方、仕事から帰ってきた母が私を呼んだ。母はなぜか私がプールから一人で帰ってきたことを知っていた。曖昧に語る私に、母が次のように諭してくれたことを憶えている。
「みんなで帰ることになったとき、児玉君がいないって大騒ぎになったそうだよ。どんなに探しても見つからないから、仕方なく帰ることにしたって。帰るならみんなに言ってからでないといけないよ。心配をかけて、迷惑になるからね。」
私は、「そうか、みんな心配してくれたんだな。悪いことをしてしまった。行動が迷惑になることがあるんだな。これからは気をつけよう。」と思ったものだ。これが私の精神史に燦然と輝く「海パン事件」だ。
私は今年58歳。この事件が一番恥ずかしかったということは、それ以降の決して短くはない人生において、無自覚に失敗を避け続け、ロクな挑戦をしてこなかったということ。これは由々しき問題だ。
恥ずかしい思いをした回数は、自分が挑戦を続けているか否かのバロメーターではないか? 今後は恥ずかしい体験を恐れず求めていこう。
(800字)
このエッセイについて
『成功する複業』のなかで著者は、「なぜ人は、『はじめの一歩』が踏み出せないのか」と問い、「失敗したら恥ずかしいと思うプライドが邪魔するから」と答えています(p.34)。
私が恥ずかしいと思ったことはなんだろう? と自問したときすぐに出てきた答えが海パン事件でした。事件自体が面白いですし、母の言葉も愛あるモノでしたので、取り上げるエピソードとして十分だと思いました。
最終盤の段落でまとめるオチは、当初、「これほど恥ずかしい事件は今後まず起きないだろう。だから何でも挑戦していこう」というものでした。しかし少したってから「今後恥ずかしいことは起きないなんて保証はないぞ、いや、いままで恥ずかしいことが起きなかったってことは、その間たいしたことをやろうともしてこなかったからじゃないか! それは大きな機会損失だったかもしれない」と気がつきました。
恥ずかしい思いをした回数は、自分が挑戦を続けているか否かのバロメーターだと思いました。