新年の抱負~完璧主義を抜け出そう~
私は物事に真剣になり切れないところがある。もう少し工夫の余地があるとわかっていても中途半端に「こんなものだろう」と思い手を抜いてしまう。なぜ私は手を抜いてしまうのか?
それは、物事は中途半端に終わらせるしかないと考えているからだ。この考えは学生時代の実験レポートにまでさかのぼる。大学一年生のとき、毎週提出を求められる実験レポートに完成度・完璧さを求めるあまり、期限通りに提出することができず単位を落としてしまったのだ。二年生で再履修した際にはとにかくその都度のレポートを完成させることに注力し、無事単位を取ることができた。しかし一つひとつのレポートは中途半端になってしまったという無念が残ったのだった。
このとき、この世界すべて一切の物事は、手を抜き中途半端にしないと最後までやり切ることはできないと思い込んだのだ。つまり完璧主義だ。これは「なぜ私は手を抜いてしまうのか?」という問い自体が間違っていることを意味する。なぜならこれは完璧主義が発する問いだから。
手を抜く理由を分析してみると結果に対する「大きな期待」に対し「これ以上時間・お金をかけられない」「実はそんなにやりたくない」という事情があることがわかる。完璧主義はこの理由を後ろめたく思うが、フラットな視点から見れば使えるリソースは決まっているし、気乗りしない案件があるのはむしろ自然だ。
「大きな期待」についていうと「大好きな作家が十年かけて出した大作三部作のでき栄え」をいまこの瞬間に自分が作り出したいと考えている。それほど完璧なものを夢想しているのだ。そりゃ、リソースがいくらあっても足りないわけだ。
時間やお金を湯水のように使えなかったりやる気が出なかったりすることで自分を責めることはない。それは悪しき完璧主義だ。大作家だって一瞬で大作三部作を完成させたわけじゃない。
今年は、この気づきを励みに自分の夢や目標に取り組んでいきたい。
(800字)
このエッセイについて
作者意図
課題本『嫌われる勇気』を読んでいる最中に「自分はどうだろう?」と自問を促されている自分に気がつきました。そこで感じた自分の問題=「手を抜いてしまう」という問題を深掘りしてみたとき、それは完璧主義が原因なのだという答えにたどり着きました。その過程をエッセイの形に再現しました。
工夫したのは、私の完璧主義の起源を語る学生時代のエピソードを全体のどこに置くかという点です。第1稿では中頃に置いていて、その前で思弁的なことを語っていましたが、それだと後半の展開が不十分になってしまうので、思弁は削除してエピソードをほぼ冒頭に移動しました。
完成までの経緯
この作品は第2稿です。原稿の熟成をテーマにして5カ月目です。今回はほぼ順調に進んだのですが、第3稿を生み出す大きな発想の転換がなく、第2稿の微調整をしたまでで期限となりました。
『嫌われる勇気』はブームの中頃にすでに読んでいましたが、あらためて読み直しました。冬休みだったこともあり、12/30午前中から深夜にかけて断続的に読了しました。1/4に第1稿完成。1/9に第2稿が完成しました。大きな変更点は上記「学生時代のエピソード」の位置の変更による後半の充実でした。
第2稿完成の翌日1/10の朝、城村先生のYouTube配信で「時間がない問題」がテーマになったのを視聴し、「やる気がない」というのはよくある問題なのだと認識を新たにしました。そこで、エッセイの当該部分の表現を微調整しました。それ以降も表現の微調整は続きましたが大きな変更はなく、第2稿で完成としました。
何か大きな発想の転換・気づきがないと第3稿まではなかなか行きにくいかもしれません。