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『「カントの道徳」講義録』レビュー:理想に囚われず、現実に流されず、生きていくために。
こんにちは!
谺(こだま)こと、児玉朋己です。
お元気してますか?
ひどく暑く長い夏も、
ようやく終わりが見えてきましたね。
だいぶ過ごしやすくなりました。
私のまわりでは、
風邪をひいてしまった人もいました。
季節の変わり目ですから、
体調に気をつけていきたいですね。
ところで、
まだまだ暑かったころ、
私はひどく落ち込んでいました。
仕事で最善を尽くしていたが、相手の期待に応えられず文句を言われた。振り返るとこちらのミスもあったとわかった。自分の仕事は最善ではなかった。私はダメなんじゃないか?
と自分を責めてしまっていたのです。
かなりつらかったです。
それが、
ある本を読んだことで救われました。
本日は、
この私の悩みを解決してくれた、
『大学生に衝撃と感動を与えた「カントの道徳」講義録』
という本の紹介をお届けします。
ではでは~
『大学生に衝撃と感動を与えた「カントの道徳」講義録』(夏目研一 著)致知出版社
著者の夏目研一(なつめ・けんいち)さんは、
昭和28年生まれ
早稲田大学大学院教育学研究科博士課程満期終了退学
公立・私立大学の元非常勤講師
カント道徳を基礎にした道徳教育を長年提案してきた
著書に『危険な教育改革』(鳥影社)がある
という方です。
カントの道徳とは?
著者はプロローグで、
カント道徳の概略をコンパクトにまとめてくれています。
それによると、
カント道徳とは、
人生の第一目的を〈幸福〉ではなく〈善・道徳法則〉におき、
〈善・道徳法則〉を「人類究極の価値」だと考える道徳だといいます。
ただカントは、
〈幸福〉を求めることを否定しているわけではなく、
道徳的判断を求められる場面以外は幸福を大いに楽しめばよい、
と言っているそうです。
では、
そのカントの道徳について、
説明を見ていきましょう。
仮言命法と定言命法
カントは道徳を二種類に分けたといいます。
幸福を目的とする道徳
一つ目の道徳は仮言命法(かげんめいほう)で、
これは人生の目的・使命の第一を〈幸福〉になることとして、自分が〈幸福〉になりたいという欲求を動機として〈善・徳〉を奨励したり実行したりする道徳です。
ここでは、
〈善・徳〉は〈幸福〉になるための手段となっています。
善を目的とする道徳
もう一つの道徳は定言命法(ていげんめいほう)で、
これは人生の目的・使命の第一を「徳性を高め善を行うこと」とし、「道徳法則への尊崇(そんすう)」を唯一の動機として善を行う道徳です。
ここでは、
〈幸福〉は人生の第二の使命として認められています。
では、
それぞれの道徳について見ていきましょう。
仮言命法とは
著者は、
仮言命法を次のように定義します。
〈仮言命法〉とは、自分(たち)の幸福への欲求・欲望を動機にし、自分(たち)が〈幸福〉になることを目的にして道徳的行為を奨励したり行ったりする方法のこと。そしてこの場合の「善への意欲」は〈幸福〉によって引き出される。
※ここでの〈幸福〉とは「利や快や情念が満たされる状態」に限定される。つまり、善や徳を行うことで得られる〈幸福〉は含めない。その〈幸福〉については〈最高善〉として位置づけられる。
またさらに次のように言い換えて説明します。
仮言命法は、「こういう善いことをすると、こんな幸福が得られますよ。だから善いことをしましょうね。悪いことをしたら幸福が逃げていってしまいますよ」というふうに道徳的行為を奨励したり行ったりする方法のことです。
この仮言命法の問題点は、
その行為が自分の利益や快感につながらない場合は行為する意欲を失ってしまうことだといいます。
たとえば、
いじめを見て見ぬふりをするのはなぜでしょうか?
それは、
「いじめを注意することで、次のいじめの対象が自分になるかもしれない」
というように、
いじめを止めることが自分の〈幸福〉につながらない恐れがあるからではないでしょうか?
この場合には、
いじめを止めるという道徳的行為が行われなくなってしまいます。
このように、
〈幸福〉を第一目的とし、
〈善・徳〉を手段とする仮言命法には、
大きな問題があるのです。
定言命法とは
また著者は、
定言命法を次のように定義します。
〈定言命法〉とは、一切の「私利私欲・利や快への欲望」を念入りに除去して、「道徳法則に対する尊崇」だけを動機として(まさにこれだけを動機として)、「徳性を高め善を行うこと」を人間の一番目の使命として(幸福は二番目の使命として認める)、自分の意志で道徳的行動方針を立て(自己立法である)、自らそれを大切だと思って自分に義務づけして道徳行為をする、そういう方法のことである。そして、この場合の「善への意欲」は「道徳法則に対する尊崇」から生まれる。
※〈道徳法則〉とは、たとえば「嘘をついてはならない」「人の命を奪ってはならない」「人を蔑んではならない」「盗んではならない」などなどのことになります。
「私利私欲・利や快」とは、
〈幸福〉のことですね。
その〈幸福〉を求めるのではなく、
「道徳法則に対する尊崇」のみを動機とし、
「徳性を高め善を行うこと」を第一の目的とする。
そうやって自己立法した道徳法則が定言命法なのです。
では、善とは何か? 善悪の判断のしかたは?
著者は、
自分が独自に表現したものだと断って、
次の二つを善の定式としてあげます。
善の定式1
〈善の定式1〉
〈善〉とは、自分と他者の人間性を、いかなる場合にもたんに手段としてはならず、常に目的そのものとして大切に扱うこと。
※「目的として大切に扱う」とは、自分及び他者の、命・生まれながらの資質・個性・尊厳、さらに他者に悪を為さない範囲での信条・自由・・・・・を大切にすること。
※カントは「手段とすること」を否定はしていない。
「他人と付き合うときには、その人を手段とはしないでその人自身を目的として接しましょう」
という言葉は、
あなたもこれまで聞いたことがあるかもしれません。
この教えは、
カントが言ったことで、
〈善〉のもっとも基本にあるものだったんですね。
善の定式2
〈善の定式2〉
道徳問題となる場面において、その行為が善か悪かは、それが普遍化が可能かどうかで判断できる。普遍化できればそれは善であり、できなければ悪である。
※「普通化が可能である」とは、道徳問題になる行為を、あらゆる人の「義務」とした場合、個人も社会も人類も自己矛盾をおこさずに持続可能であることを意味する。
※「道徳問題になる場面」とは、〈善の定式1〉に反する場面のこと。
これも小学校のときに聞いたことがありました。
「○○したっていいじゃないか!」
と私が言ったとき、
「それをみんながやったときにどうなるか考えなさい」
と先生に窘(たしな)められた記憶があります。
これもカントが出所だったんですね。
どうして人を殺してはいけないのか?
著者は、
この〈善の定式2〉をふまえて、
どうして人を殺してはいけないのかについて書いています。
そう、
私たちみんなが人を殺すことを義務としたら、
人がどんどん死んでしまい、
社会が持続不可能になってしまうからですね。
第一の定言命法
さて、
著者はこのように二つの善の定式を示したうえで、
第一の定言命法を次のように引用します。
第一の定言命法の表現方式
このように[絶対的で必然的な]定言命法はただ一つであり、次のように表現される。
君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような行動原理だけにしたがって行為せよと。
『道徳形而上学の基礎づけ』中山元訳 光文社古典新訳文庫 (p.112)
「行動原理」とは、
日本では主に「格率」と訳されてきたもので、
個人的な心構えのことです。
また、
「法則」というのは、
道徳法則のことで、
「あたかも自然界における『万有引力の法則』のように普遍的に誰に対しても機能しうるもの」
というカントの「思い」がこめられていると著者はいいます。
ですから、
上で見てきた善の定式もふまえると、
この定言命法が言っているのは、
「あなたは、すべての人がその心構えを義務にして行動しても、社会や人類が自己矛盾を起こさず持続可能であるような心構えだけにしたがって行動しなさい」
ということになりますね。
善を人生の第一目的とするか幸福を人生の第一目的とするか
さて、
幸福
善
仮言命法
定言命法
善の定式
道徳法則
等々、
むずかしい言葉がたくさん出てきて大変だったかもしれません。
なぜこんなふうにいろいろな言葉を使ってきたかというと、
カントは、
私たちが人生の第一目的に善を選ぶか幸福を選ぶか、
それが大きな問題だと考えていたからです。
カントは、
人生の目的の第一順位に〈徳性・善〉を置きました。
それは、もし〈幸福〉を第一順位に置いたなら、この世界から「争い」や「戦争」が一向に減ることがない、原理的にそういうことになる、と行き着いたからです。
定言命法の立場に立ってあたりを眺めますと、これまでとは全く違う世界が見えてきます。
たとえば、〈正義論〉と〈道徳論〉の区別が可能となってきます。カント自身はこの点を明言してはいませんが、定言命法の原理から次のことが敷欲(押し広げ応用すること)可能となるのです。
定言命法の創見によって、〈正義論〉は「幸・不幸」を巡っての領域であり、〈道徳論〉は幸不幸とは無関係に「善・悪」を巡っての領域である、と区別することが可能となった。
(中略)
それによって、〈正義〉のための戦争はありえても、〈道徳〉にかなった戦争というものはあり得ないことが明言できるようになり、第5章の〈善の定式〉に沿うなら、結局どのような戦争も〈悪〉であると断言できるようになります。この理論は「非戦」への大きな力となることでしょう。
正義や戦争という大きな話になっていますが、
このすぐ後で著者は私たち一人ひとりについても次のように言っています。
またSNSなどで、正義を盾にして相手を誹謗中傷することは、決して〈善〉ではなく〈悪〉であることにも気づくことになります。他者を自分の〈情念〉を満たすための「手段」におとしめているからです。カントの〈善の定式〉に沿うなら、他者を常に「目的」として大切にしなければなりませんから。
また、なぜ「いじめ」がなくならないのかや、日本の官僚の「忖度」問題のような事件がなぜ頻繁に起こるのか、その原因と対策がわかってきます。両方とも自分の〈道徳性〉が自分の〈幸福〉への欲望に負けたからです。
〈道徳性〉を磨くには善行の動機を「自分の幸福」に置いていてはダメなのです。人生の目的の最優先順位に「自分の幸福」を置いていてはダメなのです。それを超越した(克服し乗り越えた)動機や人生目的でなければダメなのです。なぜなら、〈幸福〉にはピンからキリまでの幅があり、他者に危害を加えて成立している〈幸福〉も予想以上に多いからです。このようなあいまいな意味を持つ〈幸福〉という言葉は、とてもじゃないが道徳教育の基礎に置けるわけがないのです。
これは厳しい指摘です。
私たち一人ひとりは、
実際にいじめの加害者・被害者になったり、
その目撃者になったりします。
そのときに、
自分次第で止められる可能性があっても、
見て見ぬふりをしてしまうこともあるでしょう。
それを、
「自分の幸福への欲望に負けたからだ」
と言われると、
ちょっと辛いものがあります。
幸福を求めるのはいけないのでしょうか?
カントは「幸福追求」を否定してはいないと著者は繰り返します。
カント道徳では道徳問題に触れない生活場面でまで「幸福欲求」を除去すべきだとしているわけではありません。カント自身は、社交が大好きで、お昼時にしばしばゲストを招き簡単なコース料理にワインを傾けながら世間話をするのをなによりも楽しみにしていました。普段は自然に〈幸福〉を楽しんで良いのです。
ただ、道徳問題にかかわる時には〈幸福〉より〈善・徳〉を一歩だけ優先すべきだ、それだけは努めなければならない、と言っているだけなのです。そして、われわれの日常の大部分は道徳問題にかかわらない物事で埋められているのです。
いじめのような問題につながってはいない、
ふだん楽しく過ごせる場面では心おきなく楽しめば良い。
ただ、
善悪の絡む道徳問題にかかわるときは、
自分の快・不快や恐れなどの感情に動かされないように努め、
善い行動を取るように努めるということ。
カントはそういっているのです。
いや~!
でも、
こりゃなかなか大変です。
〈幸福〉ではなく〈善〉を目的とした行動をいつも・つねに貫くのは相当厳しいでしょう。
あ、いや、
ここ勘違いしがちなんですが、
いつも・つねに、
を求められている訳ではないんでした。
ただ、
道徳問題に対応するときには困難がある。
私たちはどうすれば良いのでしょうか?
実はカントは、
この困難を克服するための対策・方法をもちゃんと考えていたんです。
それについて見ていきましょう。
形而上学と形而下学
また新しい言葉が出てきました。
〈形而上学〉(けいじじょうがく)
と、
〈形而下学〉(けいじかがく)
です。
カント形而上学
カント独自の〈形而上学〉とは、理性を使って頭の中だけで、理想のゴールを措定(そてい)し(存在しうるものとして立て)、さらにそのための原理・原則(つまり基礎)を措定する〈場〉のことです。
その際、これまでの常識・経験・歴史による判断、あるいは人間の幸福欲望に負けた希望的判断には頼らず、「かくあるためには、必然的にかくあらねばならない」という論理的必然性だけに沿って、原理・原則を創造していきます。そして普遍的に通用する原理を追究します。
このようなことを行う場が〈形而上学〉です。〈定言命法〉はここで創られました。また、形而上でこの仕事(思考)をするのが〈純粋理性〉という特別な理性です。
私たちは、
何かやりたいと思い理想の目標を掲げ計画を立てることがありますね。
そのとき、
実際に行うときのことはとりあえず脇に置いて、
頭の中で「このようにやれば上手くいく」と必然性に沿い本質を目指して計画を立てます。
このとき、
頭の中に拡がっている「思考が働く場」のことを〈形而上学〉というのです。
上で説明してきた〈定言命法〉は、
カントが頭の中で「このような行動原理が望ましい」と思考して作り出したものです。
「〈定言命法〉はここで創られました」とはそういう意味です。
カント形而下学
一方〈形而下学〉とは、個々の現場に降りて、形而上の原理・原則を目標としながら(あくまで目標です)実践を努力する「場」のことです。そこでは幸福欲望も道徳理性も両方持った丸ごとの人間を前提にして、飲望深き人間がいかにしたら少しでも形而上の理想に向かって歩むことが可能かを考えながら「上達の過程」を具体化します。
その時、理想と同時に人間の欲望をも考慮に入れ、しばしば「二歩前先進のための一時的な一歩後退」を行います。そうすることで、教条主義的で狂的な「強行」を回避し、柔軟に対応しつつ理想の実現を時間をかけて着実に目指します。
この形而下は〈人間学〉を必要とする領域です。〈人間学〉とは、理性だけでなく感性(欲望など)を持つ丸ごとの人間を対象にした学のことです。
形而下でこのような仕事をする理性を〈実践理性〉と呼ぶことができます。
さて、
目標と計画を立てたら次は実践です。
この実践の場面では、
頭の中で作った理想どおりにことが運ぶとは限りません。
私たちは生身の人間ですから、
快・不快の感覚や喜びや悲しみや恐れなどの感情に動かされるでしょう。
それは当然のことです。
そういった幸福欲望も認め・満たしながら実践していくのです。
この実践の過程を、
著者は次のように描いています。
つまり、人間である以上は幸福欲望に負けて過ちをおかしてしまうのは仕方のないこと、と寛容に対応します。が、それで終わらず、大切なのはその後それを反省し、次にはどうしたらそのような過ちをしないですむかを考え、それを新たな〈行動方針〉に加えていく……という繰り返しの努力をしていくことになります。これを「修養」と言います。
形而下では、
このように丸ごとの人間についての〈人間学〉を駆使しながら、
目標達成を目指すのです。
著者は次のようにまとめています。
一言で言えば、カント独自の〈形而上学〉とは、理想の原理・法則・基礎を創る「観念的な場」のことであり、一方、〈形而下学〉とはその理想を実践しようと意志で奮闘努力する「個々の現場」「実践の場」のことです。
形而上学と形而下学の間を行ったり来たりすること
私たちは、
たとえ〈善〉を求めていても、
つい自分の快不快・恐れ・喜び・悲しみ、
つまり幸福欲望に流されてしまいがちです。
カントが考えたこの困難の克服法、
それがこの、
「形而上学と形而下学の間を行ったり来たりすること」
でした。
私たちは〈善〉を求め、
この目標で行こう、
この方法・計画で行こう、
と自分のあるべき姿を思考して決めます。
これは形而上でやるんでした。
そして、
その計画を形而下の場に降りてきて実践します。
そうすると、
思うようにいかなかったり、
まわりの状況によっては不安のためあるべき自分でいられなくなり、
逃げてしまうこともあるでしょう。
すると、
ああ、自分は決めたようにできなかった。
ああ、あのときああしていれば良かったのに。
ああ、これができなかったんだからもう自分は一巻の終わりだ。
などと考えてしまうこともあります。
理想的に動けなかったことに打ちのめされてしまうのです。
この状態で諦めてしまえばそれで終わりです。
では、
どうすれば良いかというと、
もう一度形而上の場に戻り、
計画を立て直すのです。
形而下の実践の場で上手くいかなかった理由を考えます。
決めた時間に勉強を始められなかったのは何故か?
あのときあの人に声をかけられなかったのは何故か?
大切な人との約束を破ってしまったのは何故か?
そして、
それをふまえて新たな〈行動方針〉を作ります。
そのうえで、
また形而下の場に降り立ち、
再度実践するのです。
すると、
こんどは前回とはまた違った結果が得られるでしょう。
上手くいけばめでたしめでたし。
上手くいかなかったところは、
また形而上の場に持ち帰ります。
これを繰り返すのです。
このように、
「形而上学と形而下学の間を行ったり来たりすること」、
それが「修養」であり、
つい幸福欲望に負けてしまうという困難の克服法なのです。
カントの道徳は理想論ではない
さて、
著者によると、
カントの道徳は否定的に見られることもあるようです。
理想論でありすぎ現実的でないと。
たしかに、
いじめの目撃者となったとき、
日頃は「〈善〉を目指そう」と心掛けていても、
恐くなって何もできない現実があるでしょう。
だから理想論だと、
カントの道徳は言われがちなのです。
でもそれは、
定言命法の部分だけを見てなされている批判だと著者はいいます。
カントは言います(以下は夏目による要約ですが『』内がカントの直接の言葉です)。
「形而上で措定された定言命法は形而下の個々の現場においてはあくまで『実践的な完全さの原像として役立ち、道徳的な行為の不可々な基準として役立ち、同時に比較
の尺度として役立つ』」。
『実践理性批判2』中山元訳 光文社古典新訳文庫 (p.162)
つまり裏を返せば、形而上の理想を形面下(個々の現場)でも必ず実践しなければならないと言っているのではない、ということです。形而下に降りた時には形而上の理想はあくまで目指すべき目標であり道徳の判断基準であり、ということは、形而上の義務は形而下では「努力義務」に緩められるということになります。
これはつまり、
定言命法は実践の場において「参照される指針・基準」であり、
実践がどのくらい上手くいっているかを測る尺度だということです。
そして、
形而上で定めた理想は、
形而下においては、
教条的にいつも・つねに実践しなければならないわけではなく,
「努力目標」だと捉えて構わない、
ということです。
形而上学と形而下学の両方が必要
私たちはつい、
形而上か形而下か、
どちらか一方のみで考えてしまいます。
形而上だけだと
形而上で理想を考えているだけでは、
こうであるべき
こうでなければいけない
白黒思考
ゼロヒャク思考
となってしまいます。
そして、
完璧にできていないと自分を全否定してしまいます。
形而下だけだと
形而下で理想なく実践しているだけでは、
現実に流されるだけ
右往左往するだけ
感情に流されるだけ
求める理想がない
となってしまいます。
そして、
無責任になって現実を追認するだけになってしまいます。
両方が必要
形而上・形而下どちらにしても、
一方のみでは無力感で一杯になってしまうでしょう。
私たちが生きていくには、
形而上学も形而下学も、
両方必要なのです。
理想を理想として設定し、
実践する際には、
今の現実を理想を基準・尺度として測り、
行動を修正していく。
結果が出たら、
それをふまえてまた理想を設定し直し、
また実践の場に下りていく。
それを繰り返す。
カントの道徳は理想論ではない
カントの道徳は、
こういった生きていく過程全体を想定しています。
けっして理想論ではなかったのでした。
まとめ(私が学んだこと)
冒頭でお話ししたように、
私は、
仕事で最善を尽くしていたが、相手の期待に応えられず文句を言われた。振り返るとこちらのミスもあったとわかった。自分の仕事は最善ではなかった。私はダメなんじゃないか?
という状態に陥ってしまい、
自分を責め悩んでいました。
そんなとき、
この本に出会ったのです。
私は最善を求めていましたが、
いつしかただ教条的になり、
べき思考になってしまっていたことに気づきました。
そして、
その自分の理想は、
実践の場では努力目標として捉えればよいということを知りました。
自分が理想的に動けなかった理由を振り返り、
今後の仕事で同じ過ちを繰り返さないための対策を取れば良いのだとわかりました。
これは大きな学びでした。
仕事でも、
プライベートでも、
多くのことに当てはめて豊かに大きく考えていくことができるようになったと思います。
みなさんの参考になれば嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
では、また。
生命って何だろう? 生きるって何だろう?
谺(こだま)