AIと音楽②―みんなの考え【インスタde思考実験 Vol.1】
みんなが送ってくれたそれぞれの考えについて、僕なりの思いを言葉にしていきます。
思いを送ってくれたみなさん、ありがとう。とってもおもしろかった。僕の思考のガソリンになりました。
新ジャンル「AIミュージック」
「AIミュージック」的な新しいジャンルが生まれるとか!?
オリコンランキングに 「AIミュージック」っていうジャンルがあったら、たしかにおもしろい。笑
もしそうなったら、人間の音楽とAIの音楽は共存するのか…?
「AIの音楽の方が完璧に近くて美しいから、 人間の音楽はあんまり聞かない!」
とか、
「AIの音楽には味がないから、 人間の音楽しか聞かない!」
とか、ならないのかねえ、、、
AIの音楽と人間の音楽が共存していく道を探っていく時代に入っていくんでしょうね。
将棋のプロが、AIと対戦したり、AIで戦法を分析したりしながら、技術を上げていくように。
――AIがさらに強くなっていくと、人間の棋士の存在意義はどうなると思いますか。
基本的には、ファンが楽しめるかというところが一番大きいと思います。強さと面白さはイコールではありません。実際、ソフトが人間を超えたことによってファンが減ったということにはなっていません。むしろ、評価値を通してみることができるようになったので、グラフがカタカタ上がったり下がったり、今どっちが優勢なのかが明確に出されるようになりました。対局者以上に情勢を把握できるようになったんですね。
「「AI時代の申し子」は将棋で人との練習は基本しない」朝日新聞デジタル
――人間が指す将棋の面白さがあるということですか。
そうですね。二つの要素があって、時系列で物事を考えるかどうかと、もう一つは恐怖心があるかどうかです。恐怖心があるがゆえにこの手が指せるとか、この手を選ぶっていうことがよくあるんですね。そこに見ている人たちが共感できるかどうか、魅力を感じられるかということがあると思います。
「羽生善治は思う「人がAIに寄りすぎるのはどうなのか」」朝日新聞デジタル
作者の曲への愛は…
作者の曲への愛が感じられなくなるのは嫌だなあ
わかる。人間の作者の存在が感じられず、曲だけがなんの文脈にも乗らずに存在してる感じ。気持ち悪い。
でも、作者の曲への愛は、作曲の段階で影響を与えているのかもしれないけれど、完成した曲を聞いて、「この曲作者の愛こもってるぅ!」とか、逆に「この曲愛こもってないわ~」って感じることは、そこまであるのだろうか?
愛が曲そのものの特徴に影響を与えているというよりも、作者の愛がこもっているという情報が、曲の聞き手に影響を与える部分が大きい。
であるならば、作者の曲への愛は、別に無くても変わらないんじゃないか説。
偏見かもしれないけれど、 チェーンとかフランチャイズの飲食店で、調理が全部マニュアル化されている場合、 提供された料理に愛を感じるだろうか? 愛を感じなくてもおいしいと感じるなら、それでもいいのではないか?
言わば「音楽のマクドナルド化」が起こる!?
それに慣れてしまえば、 愛なんて幻想だと感じるかも。
AIによる音楽が美しいならば、それ以上何を求めるのか、ってね。飲食チェーンみたいに。
AIと人間の境界とは…
もうAIが歌う時代は来てるよね。「KIZUNA AI」っていうバーチャルの存在もいるし。
「Kizuna AI」ガチで音楽やってる。しかも歌はきれい。
ただ、【揺らぎ】がない分、 完璧すぎて違和感はあるな。もし技術の発展で、揺らぎまで表現できたら、それを人間はどう感じるんだろう?
いきものがかりのリーダー水野さんがKizuna AIに 「the MIRACLE」って曲を楽曲提供してて、
その歌詞の中にこんな部分が。
意味のない宇宙に
線を引いて希望を見る それがNINGENなの
愛というKOTOBAより
キミガワラウ→ムネオドル これはなんなの
境界はぐらぐら きみこそFANTASY
考えさせられるなあ、そのとおりだなあ、と思う。
AIと人間の境界はどこに現れるのだろう? 人間が人間である条件とは?
人間こそ、確実なものではなく、 FANTASYの存在なのかもしれない。
フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、人間と見分けがつかないアンドロイドを、人間のいわば猟犬が殺しに行く物語である。
物語の終盤、主人公の人間が、アンドロイドとともに寝るシーンがあるのだが、もはやアンドロイドと人間の区別は、そこには存在していないのだろう。
また、主人公が、自分は本当はアンドロイドなんじゃないかと疑い始め、自分をアンドロイドを特定するテストにかけるシーンがある。
このように、ここまでアンドロイドと人間の違いがあいまいになった世界では、両者の違いはそこまで重要視されるのだろうか?
SFに触れていると、人間の定義までもがFANTASYに思えてくる。
(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の文庫版の訳者あとがきに、アンドロイドと人間の違いについて、著者のディックがどう考えていたかが書かれている。めちゃくちゃおもしろい。ここでは言わない。ひ・み・つ。笑)
ちなみに、水野さんの立ち上げたプロジェクト「HIROBA」で、この曲について水野さんの言葉で語られています。おもしろいのでぜひ。
音楽と人間の関係性はどうなる?
1つの音楽を、聞き手が自分の文脈で聞いてるから、音楽と人間の関係は変わらないんじゃないかな
なるほど。。。AIが音楽をつくろうとも、人間は人間であり、音楽は音楽であることには変わりないからなあ。
ただ、今聞いている音楽が人間の作ったものなのか、AIの作ったものなのかを知っていると、人間の音楽の受け取り方もガラッと変わるんじゃないかと。
テレビで、「芸能人格付けチェック」っていう番組が、結構長いこと続いている。なぜそんなに続くのだろう? 何が視聴者の興味を引くのだろう。
それは、「なんの外部情報もない中で、人間が刺激を受容する」という特殊な状況によって、人間の知覚の脆さが見えるからじゃないかな。
人間が、五感をも自分ではないものに頼っているという事実がまざまざと見えるからね。
果たして、人間はその脆い知覚能力で、AIが作った音楽をバイアスなしに受け取ることはできるだろうか?
そもそも、外部の情報で受け取り方が変わるような人間の脆い知覚にとって、「本物」にはどんな意味があるのだろう?
また、人間の受け取り方も変化するけど、曲のあり方そのものも変化するかもなって。
人間の作る曲は、ソングライターが自身の経験や認識を基に曲を書いている。 つまり、そのソングライターがどれほど深く、広く経験・認識を持っているかによって、曲がどれほど心に響くものになるかが決まる。
でも、AIは過去のデータから学習し、 人間1人の人生で抱えられる以上のものを背景に、曲を書ける。
それならば、AIによって、よく言えば誰にでも響く、悪く言えば尖りの無い曲ができるのでは??
響く部分はあるけど、“自分のために書かれた曲だ!”っていう感覚は生まない曲。
まるでマクドナルド。 これを人間はどう受け取る?
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続く。