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便利について考える

仕事上、僕は最近「便利」についてよく考える。
なにをどうしたら便利になるか。
ココにコレをつけたら利便性があがるか。
ない頭をひねってコロコロと考える。
そしてだいたいよくわからなくなる。
「便利って結局、なに?」と。

今日は最近仕事でやった、
利便性についてのアンケートについて考えていた。

ある学生の回答に、こんな文があった。

「不便さは無意識の中にあるから、見つけるのは難しい。」

僕はこの一文をなんども反芻し
頭をくるくるとひねり、深く頷き同意した。

「不便さは無意識の中にある」
妙に腹落ちする言い回しだった。
あるなぁ、それ。
言われるまで気づかなかった不便。
そう言われてみればっていうやつ。
そして立ち返った。

無意識の中にある不便というのは
それは意識に許容された不便ということで
つまり不便だと思ってないってことで、
思っていなければもはや不便ではないはず。
一歩間違えればそれはコジツケ的な不便だ。

存在してもいなかった不便を
スケッチブックに創作で描いて見せて
「ほら、これ不便でしょ?解決してあげる」
という”コジツケ不便”と”押しつけ便利”だ。

あぶないあぶない、気づいてよかった。

僕は元々どちらかというとアナログ人間で
感情に揺さぶられがちでカッコつけで
格好とか手触りとか表現とか
そっちに気持ちが動くことが多い。
それでも仕事上頭をひねりはするけど
実は少しどうでもいいと思ってる、利便性。

というかそんな事を考えるまでもなく、
既にとんでもないレベルの便利を
日々享受しているのが現代の僕らだ。
今だって僕はバスの座先にふんぞり返って
Apple Musicでポップスを聴きながら
iPhoneでぽちぽちとゴタクを並べているし、
家に帰ればテレビ画面で映画が見放題だし。
寝る前には8,000キロ離れた街の恋人と
無料で何時間だって電話ができるし。
最高に素晴らしく便利だ。
そういった人々の渇望の中から生まれた便利で
概ね存分に満たされているはずなんだよ。

なのに気を抜いたら、その便利もまた
無意識の中に落ちていっちゃう。
これは本当に気をつけないといけない。
僕たちは欲張るのだけは得意なんだ。

あと便利ついでに頭に浮かんできたのが

「便利になるというのはどういうことか、
それは人間が楽をするということだ」

っていう映画のセリフ。

これはなんのセリフだっけな。思い出せないな。
思い出すまで考えてみよう、愛おしい不便だ。

おしまい。


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