小山田さん辞任と、いじめについて
自称いじめ被害者側の人は、自分が誰かにとっての加害者になっている可能性を無視してやいないか。被害者であり加害者でもある人間がごまんといるはず。そんな人間が被害者面して小山田さんや関連する人達を一斉非難している様相は問題ないのでしょうか。無関係な人を非難する理屈はどこにあるのでしょうか。
小山田さん辞任に関して、子供特有の陰湿とした雰囲気を纏ったいじめのように私は見えてしまいます。
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・いじめ問題の当事者と外野について
私が嫌いないじめ加害者は、主犯とは一線置いて、さも無関係そうに、でも確実にいじめに加担している“普通”な人間です。直接下すことはあまりしない。でも同調圧力に従い、その圧力を大きくしている。彼らにはいじめに加担している意識はないでしょう。そんな人達が大人になって、全うな人間としていじめを糾弾している、そんなことを思うと本当に気分が悪いです。
いじめは悪です。加害者は悪です。受けた側は何年経っても忘れないし、加害者への印象はずっと悪いです。例え加害者が聖人のような大人に成長したとしても、許すことは簡単ではないでしょう。理性的には許容出来ても、感情的には否定的になってしまう。
それは仕方のないことだと思いますし、自分自身も未だに消したい過去として記憶に蓋をしています。
なので、小山田さんがいくら音楽家として優れた人物になろうが、当事者からしたらそんなことはどうでもよく、ただの加害者でしかない。もちろん実際どう思っているかは当事者に聞かねば分かりませんが。
ただ、その一方でいじめ加害者としての小山田さんを全く知らずに付き合ってきた人達からすると、彼への見方が違うはずです。「過去は知らないが、少なくとも一緒にいた彼は良いやつだ。」こんなセリフは幾つも出てくるでしょう。自分と関わってきた小山田さんが全てであり、それ以外のものは無機質な情報でしかない。
前科者は過去の過ちを一生責められ、その後の善行は無視されるのか。そうすべきなのか。私の答えはノーです。ある一部を切り取って、その一点しか評価しない姿勢は、その人を正しく評価したとは言えないでしょう。そもそもそう簡単に一個人を評価するのは出来ないはずです。
例外として、当事者だけはノーではないです。当事者だけには、許す権利と同時に許さない権利がある。同じ境遇だとか、他にも例外と呼べる存在はいるかもしれないが、基本的にはその他は外野なのだ。
罪人を裁くのは法であり、人ではないです。ましてや、全く無関係の外野の人であっていいわけがありません。じゃあ外野は黙れ!と言いたいわけではないが、小山田圭吾という人物を知りもしないのに知った気になって拒絶している人達は、あなた達はそんなに綺麗な存在なのかと問いたい。自分はそんなことしない、してない。こんな意見ばかり出てきそうだ。そんな自覚のない“普通”な人達も、誰かにとっての加害者である可能性を忘れるな、そんなクリーンな人間はいないのだと強く言いたい。
そしてそれを踏まえ、それでも誰かを評価するならばもっと多面的に知らねばならない。知れば知るほど、自分の無知を知るはずだ。
・いじめとSNS
いじめという問題について、これは簡単に答えが出る問題ではありません。何かを悪者にして糾弾するだけでは、根本的なものは解決されません。被害者を出さないためには、加害者を減らすことが第一であり、ではなぜ加害者は加害者になるのかを慎重に分析せねばなりません。
snsやメディアから得られる軽くて薄い情報は、安直な非難しか生まないのを我々は体験しているなのに、今日においてそれは収束するどころか加速しています。三浦春馬一周忌の記事と小山田さん辞任の記事が並んでいる様は、まるでsns社会の膿のようだと感じました。少なくとも今の状態において、snsは議論の場としては相応しくなく、それを盲信している大衆の意見も価値あるものは多くないでしょう。いじめを生み出す空気感が、snsには備わっている。
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私は小山田さんが好きでした。サカナクションがきっかけでコーネリアスを知り、そこからフリッパーズギターへハマりました。ただ今回の件で、その名前は思わぬ形で広まってしまった。前にはピエール瀧や絵音くん、カナブーン飯田も思わぬ形で広まったが、その中でも小山田さんはあらゆる点で、一線を越え、世間に知れ渡ってしまった。世間の反応に理解はするものの、やはり悲しいものがある。否定や非難の声は得てして大きく、肯定的意見は表に出にくい今日において、彼を支持するのは難しい。それは私も同じだ。ただ彼の作品だけは、自分の感情に従って評価をしたい。